第11話 シカとコアラとウとフクロウ、そして柴犬

 割れた花瓶は、地下一階の学生食堂前にいつも飾られているものだった。

 昨日の放課後から行方がわからずにいたが、てっきり花を生け替えているものだと思い、調理師たちも気に留めていなかったのだと言う。


 花を交換しているのは、二年一組担任の英語教師・小荒木コアラギだ。

 彼女は、職員室に持ってこられた花と花瓶の残骸を見て「確かに私が生けたものです」とうなずいた。


 個人的に生け花をよくする小荒木は、校舎の美化のために各所に季節の花を飾っている。

 この秋ユリは近所の人が育てたもので、珍しいからとお裾分けされたそうだ。


 花は栄養剤を混ぜた水に活け、一週間おきに水を変えている。

 食堂にはそれ以外の用で行くことはないので、無くなったことにも気が付いていなかったらしい。


「すみません。まさか、こんな風に使われてしまうなんて思ってもみなかった……」


 善意で飾った花が、生徒を傷つけるところだったと知った小荒木は、深くうなだれた。


「ああ、生徒を信用したせいですね。今後は立場をわきまえた方がよろしいかと」


 小鹿は皮肉っぽい言葉で片づけた。

 そして、鵜飼とともに職員室に来た和寿妃に冷たい一瞥をくれる。


「それで」と、凍りつくような冷たさで言った。


「果たしてクラスに問題はなかったのでしょうか。大柴さん」


 小鹿を、和寿妃は無表情に見つめ返す。

 それは以前交わしたやりとりに対する、子供っぽい仕返しだった。


『そうですか。では、問題ないということですね?』

『はい。なにも問題ありません』


 火花が散るような視線を交し合う和寿妃と小鹿の間に立たされて、鵜飼は、咄嗟に生徒の味方につこうとする。


「小鹿先生、そんな言い方ないと思います。学級委員だからってクラスで起こった問題が全部、大柴さんの責任になるんですか? そんなことは」


「とはいえ、怪我人が出ちゃってますしねえ」


 片手でペンを回しながら気が抜けた炭酸のような声を上げたのは、三組担任の物理教師・福郎フクロウだ。

 同じ三組の副担任でもある鵜飼は、福郎に言い返した。


「誰も怪我はしていません。三輪くんは尻もちをついたくらいで……」

「大怪我をしかねない状況だったのは事実です」


 小鹿が後の言葉を引き取り、鵜飼は黙り込んだ。

 その様子を面白がるかのように、福郎は小鹿に尋ねた。


「それで、その三輪くんていうのはクラスでいじめられてるんですかね」

「……そんな事実はありません」

「本当かなあ。小鹿センセー、ちゃんとクラス指導できてないんじゃないですか? 不登校児を二人も抱えてるし」

「福郎先生の個人的な都合で事実を捻じ曲げないでください。亀井の欠席は体調不良によるものです。保護者にも確認済みですから」


 子供のケンカか。

 正担任二人のいがみあいに、鵜飼は肩を落とした。

 普段ならこのあたりで小荒木が、やんわり止めに入るのだが、今日はすっかり落ち込んでしまっている。


 ここは私がなんとかしないと、と、姿勢を正した鵜飼よりも先に前に出たのは、和寿妃だった。


「小鹿先生。私たちに、一度だけチャンスを与えていただけませんか」

「……チャンス。なんですか? それは」


 口のはしで笑う小鹿に、和寿妃は少しも怯まなかった。


「今回の件については警察に通報してしかるべき事件だとわたしは思っています」


 警察沙汰。

 その言葉に怯んだのは、むしろ教師陣の方だったかもしれない。

 二年生という大切な時期。

 その上、前回の校外開放イベントの体育祭でも、程度の差こそあれ同様の傷害事件が起こっている。同じ学年、同じクラスで、だ。


「……そうね」


 最初にうなずいたのは、小荒木だった。


「大事にならなかったとはいえ、それくらいの処置を講ずるべきなのかもしれない」

「いや、いくらなんでも大げさですよ」


 福郎が慌てたように口を挟む。


「問題児の多いクラスで、ちょっとタチの悪いイタズラが起きただけですよ」

「福郎先生、三輪くんのご両親にも同じことが言えますか」

「……三輪は片親です」


 福郎の代わりに答えたのは小鹿だった。


「おまけに今は、そこの大柴の家に厄介になっていると聞いています。


 たっぷり含みを持たせながら小鹿は言った。

 中指で老眼鏡のズレを直し、肩をすくめる。


「ともかく、ここでとやかく言っていても埒が明かない。私は校長に報告をします。目撃したという鵜飼先生も一緒に来てください」

「小鹿先生」


 和寿妃の声は静かだった。

 だが、明確に静止を命じるその声に、教師一同は一斉に動きを止める。


「チャンスをくださいと申し上げました」


 和寿妃の足元に、水たまりのように小さな影が落ちている。

 がらんとした職員室に落ちる影のどれもが同じように色が薄い。

 だが、和寿妃の足から伸びた影は、まるで脈打つかのように揺らぎ続けている。


「チャンス? バカバカしい」


 声を上げた教え子を、小鹿は冷ややかに見下ろす。


「これだけの騒ぎを起こしたクラスに、この上どんな機会を与えろと言うんですか」

「……間違いを正す機会です」

「却下します」


 足元で、大きく影が脈打った。

 和寿妃は小鹿に相対しながら、その影の中に子供の頃の記憶を映し出している。

 そこには、三輪 忍という名前の少年がいた。


 端正な顔から表情というものを丸ごと落として来てしまったかのような無表情な子供で、和寿妃がどんなに構っても、笑いもしなければ泣きもしない。


 むしろ怯えるような態度を示すので、和寿妃は困った。

 同い年の子供も上手く扱えない。

 為政者の血筋である大柴家の長女としての資質を疑われると思ったのだ。


 小鹿は頭の上から、和寿妃を叱った。


「いい加減になさい。何を思いあがっているんですか。あなたはただの一生徒に過ぎないんですよ」


 、と和寿妃は思う。

 自分の分をわきまえろ。女の子なんだから。子供なんだから。

 物事を解決することも、責任をとることも、どうせ何もできはしないんだから、と。


 事実、そうなのかもしれない。学生の和寿妃は、家柄の良さに甘えて、大人たちの手の上で気ままに振舞っているに過ぎない。

 だが少なくともあの日はそうではなかった。


 自宅の庭に真っ白なヘビが現れた時、和寿妃はそこにいたのだ。


 和寿妃は一人の男の子が恋に落ちる現場に、証人のように立ち会う羽目になった。

 大人は大騒ぎをした。

 子供が噛まれたとか、驚いて転んだとか、あることないことを言う。


 部屋の外で、和寿妃はしっかり聞いていた。

 膝は擦りむいただけだ。消毒して大げさなガーゼを当てられてさえいる。

 だがヘビを殺す話はすでに持ち上がっていた。


 ふと横を見ると、一緒に並んで聞いていた少年が肩を震わせて泣いていた。

 こんなことで泣くんだ、と、ひどく驚いたことを覚えている。

 ――同時に、そう思った自分の冷淡さに、不意に慄いた。


 誰が死んでも、何が損なわれても、こんな風には泣けない気がしたのだ。

 お母さんが死んだら、確かに泣くかもしれない。だとしても自分が嘆くのは、世話をしてくれる人がいなくなる欠落についてだ。


 ましてや、ヘビなんて。


 まるでいきなり鏡を目の前に持って来られたようで、和寿妃の目には、その時、なにかこの少年の涙がひどく尊いもののように映った。

 そして、もしこの美しいものを守れないようなら、そんなこともできないなら、もう自分は一生、救いようがない。


 気がつくと、和寿妃はその子の手を握り締めていた。『だいじょうぶ、わたしが』


「何が正しいとか、間違っているとか、あなた方に判断できるとは私にはとても思えない」

「どうしてですか? 学生時代の先生もそうだったからですか」


 小鹿の言葉に、和寿妃は鋭く切り返す。過去は彼にはまだ有効だった。

 直接的には答えず「未熟だと言っているんです」と返す。

 このやりとりを、福郎は口をおさえて笑った。


「へえ。小鹿先生は、いつもそうやって生徒の意見を撥ねつけているんですね」

「黙ってください。今はあなたと学生教育について議論すべき時ではない」

「……大柴さん」


 だが、小荒木は捨て置かなかった。


「大柴さんは、どうしたらいいと思うの」

「わたしが犯人を見つけ出します」


『わたしがきっとなんとかするから、だいじょうぶ』


 和寿妃は片腕を大きく広げて言い張った。


『泣かないで、シノブくん。カズヒはね、なんでもできるの。ホントだよ。ホントになんでもできるんだから!』


「わたしは怒っているんです。こんなことをした犯人を。許せないんです。人の優しさを踏みつけにするような真似をされるのが」


 あの時。

 何の根拠もない和寿妃の言葉に、説得力があったかは疑わしい。

 だが、忍は必死に言い募る和寿妃に、瞬いて、確かにうなずいた。

 その時、くしゃくしゃに歪んだ笑みを返してくれた忍が、いつだって和寿妃を支えている。


「もう目星はついています。先生がその人を思い切り叱ってくれたら、警察なんて要らないでしょう。小鹿先生の仰る通りだと思います。わたし達はとっても未熟みたいですから!」

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