第10話 刺すほうが早い

 うまく頭が働かない。

 忍はまず、囲みの中で和寿妃のローファーを拾い上げた。

 体育教師の鵜飼から呼び止められた気がしたが、無視する。

 人混みを掻き分け、下駄箱へ。

 もたもたとスニーカーを上履きに履き替える。和寿妃の下駄箱から上履きを取って、代わりにローファーを押し込んで、階段を駆け上る。


 鼓膜でとくとくと心音が鳴っているのが、五月蠅い。

 嫌な予感で、吐きそうなくらいだった。


 ばたばたと和寿妃の後を追って、それでも十分は経ってしまっていたただろう。

 忍がやっとのことで教室に辿り着くと、やはり和寿妃は靴下一枚で、教室の真ん中にいた。


「和寿妃……」


 やめてくれ、と忍はもつれるように舌を動かす。

 和寿妃が胸倉を掴んでいるのは、あろうことか猿渡だった。

 力が強いのだろう。猿渡はもがいているが、振りほどけない。


「なん……ッだよ、僕じゃねえって言ってるだろ」

「窓を開けたのは猿渡くんだった」

「知らねえよ、僕は花瓶になんか触ってない!」

「和寿妃、やめろ」


 忍は咄嗟に肩を触ったが、和寿妃は振り向きもしなかった。

 触れた感触だけで張りが伝わってくる。怒っているのだ。

 イエティに対して。


「窓を開けたのは猿渡くんだった!」


 首を縮めた和寿妃が、威嚇するように吠える。


「仮にそうだったとしても、まだ本当には何も決まってない」


 忍もまた、裏返った声を張り上げる。

 緊張した間があり、和寿妃が鋭いため息をつくのと、猿渡が身をよじって逃れるのとが同時だった。


「もし、を……」


 顔を真っ赤にして、ぶるぶる震えながら猿渡は忍を指さした。


「僕が本気で殺そうとすれば、こんな回りくどいやり方はしない。直接、刺しに行く。そのほうが早いッ」


 そう言って忍の方を見もせずに指してくる猿渡の手に、忍は本当に刺されたような気がした。

 猿渡に強い言葉でそう言われて、なぜかショックを受けている自分がいる。


「た……確かに窓を開けたのは猿渡だけど、マジでそれだけだよ」


 おずおずと声を上げたのは、遠藤 兜人カブトだ。

 自分の色黒の顔を落ち着かない様子で触りながら状況を説明した。


「俺たちも驚いてんだって。掃除しようっつって、そこの窓を開けたんだ」


 窓というのは、真横にある腰高窓のことではなく、天井近くの押して開ける窓の方だったらしい。

 前に椅子が置いてあるところを見ると、それを踏み台にして猿渡は窓を開けたのだろう。

 窓には横向きのレバーがついていて、下に向かって曲げるとロックが解除される仕組みだ。


「……レバーを動かしたら、なんか変な音して……下を見たら、大柴さんが」


 上を見上げた和寿妃と目が合ったらしい。

 和寿妃は一目散に走りだし、教室に着くなり猿渡に詰め寄ったというわけだ。


「窓からすごい勢いで花瓶が落ちていくのが見えて、ぞっとしたよ……」


 掃除中だったらしい。長ぼうきを手にした兜人はそう言って背筋を震わせる。


 和寿妃は、忍が前に置いた上履きに足を入れたところだった。


「……つまり、勝手に花瓶が下に落ちていったって?」


 開いている腰高窓から頭を突き出すようにして、外から天窓を確認する。

 マスキングテープがぴらぴらと風にたなびいているのを発見して、窓を乱暴に閉めた。


「誰かがレバーに細工して、花瓶を載せてたんだろうね。動かしたら落下するように」

「はあ!? だ、誰がそんなこと」

「……この場には誰がいたの?」


 教室を見回す和寿妃に、誰も答えなかった。

 見ればわかることだからだ。この場に揃っている。

 和寿妃が俊足で駆け上ってきたのは、花瓶の落下直後だった。


 猿渡 崇志。

 遠藤 兜人。

 象橋キザハシ 奏多。

 獅子戸 玲於奈レオナ

 寺山 蛍悟ケイゴ

 本郷 鈴芽スズメ


「他の人たちは?」

「……家庭科室でミシン使ってるよ」


 口をとがらせるようにして答えたのは獅子戸だ。


「裁縫苦手だから、残って掃除してたの。悪い!?」

「……っていうか、ここにいただけで疑われるわけ」


 象橋がツインテールを搔きむしるようにそう抗弁する。


「細工がされてたんだから、いま教室にいなくたっていいってことでしょ」

「そう! 俺もそう思ってた」


 蛍悟がしきりにうなずき、鈴芽も同調した。


「昨日、掃除で窓開けた時はこんなことなかったんだし、今日一日の間のどっかで仕込んでたんだよ。誰でもできるじゃん」

「っていうか、指紋とか調べたらいいんじゃ」

「忍くん」


 一斉に喋りだす六人を無視して、和寿妃は忍を振り向いた。


「それで、誰なの?」


 いま聞くのか。忍は黙って首を振った。

 その細かなジェスチャーの意味が和寿妃には伝わらないらしい。


「とぼけないで。きみは持久走の記録を確認したんだから、誰が犯人なのかわかっているはずだ。誰だったの? 授業を途中で抜けたのは。どうせ今回も同じ人だよ」


 六人全員、ざわついた。忍はため息とともに答えた。


「おまえが知りたいようなことは、なにも無かった」

「嘘でしょ。ここまでされて、まだ庇うの」


 怒りが抑えきれないようだ。和寿妃はうすく笑ってさえいた。


「誰なの? 猿渡くん?」


 違う、と忍より先に声を上げたのは、獅子戸だ。


「だから、猿渡じゃないって。猿渡はあたしの代わりに窓を開けてくれたの、それだけ!」


 鈴芽も一緒になって猿渡を弁護した。


「そ、そうだよ。玲於奈は背が高いけど、スカート短いからさ、椅子に立ったらパンツが見えるじゃん。ほかの男子がエロい目で見てるから、童貞なりに気を遣って」

「うっうるさいっ、余計なこと言うな!」


 耳まで赤くして両手をばたつかせている。

 和寿妃は、だが、額に手を当てて首を振るだけで返した。

 そして、伏せた顔を上げて学級委員らしく宣言する。


「学級会を開きます」

「和寿妃!」

「どのみち、もう無理だよ。この教室から花瓶が落ちたのは、もう先生たちに隠しようがない。わたしも小鹿先生に啖呵を切ってしまったからね――やるべきことはやらせてもらう」


 和寿妃の言葉の直後に、背後で教室の引き戸が開いた。

 美術部員二人を伴って現れたのは、青ざめた顔の鵜飼だった。

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