第8話 躾

 和寿妃とは、小鹿をやり込めたその日のうちに話した。

 いや、話させられた、というほうが正確かもしれないが。


 和寿妃の家からの方がバイト先に近い。

 これは忍には思わぬ幸運だったが、間に急な上り坂を挟むのが難点だった。

 駅前で急に声をかけられた時の逃走手段として、やはり自転車は必要なのだ。

 行きは坂を下るだけで良いが、帰りは逆に登らなくてはならない。


 そこで、坂に隣接している自然公園を通ることにした。

 少し遠回りする形になるが、この公園の遊歩道沿いに歩いていけば、疲労せずに居候先に到着することができる。


 そういうわけで、夜の十時過ぎ、忍は自転車を押して自然公園を歩いていた。

 聞こえるものは、葉擦れと虫の声。

 自転車のタイヤがチキチキとカッターの刃を繰るような音を立てている。

 昼日中は艶やかな紅葉で見る者を楽しませる並木も、ぽつん、ぽつんと申し訳程度に立っている街灯の放つ光では、どこか寒々しい印象だった。


「お疲れさま」


 和寿妃が現れるまでは。

 二台のブランコのぐるりを囲む柵に腰かけていた和寿妃は、忍の姿を認めると、ぱっと立ち上がった。

 忍は瞬きをして、その目に和寿妃がまだ制服を着替えていないことを認めた。

 ということは、予備校が終わってから待っていたのだろう。

 忍と二人きりで話をするために。


「……お嬢様が、こんな時間に一人で出歩くなよ」

「家のすぐ近所なんだからいいじゃない」

「それでも危ないことには変わりないだろ」

「心にもないこと言うよね」


 拗ねたような口ぶりに、忍は頭を掻いた。

 怒っているのだ。こうなることは予想できていた。

 クラス総出でイエティ探しを邪魔された、和寿妃はそう思っているのだから。


「だって、イエティの仕業とは限らないだろ」


 忍が先回りして言うと、和寿妃は肩をすくめて見せた。


「イエティかどうかじゃないよ。悪いことをごまかしたって、悪い人が得をするだけで、なんにもならないのに。なんでみんな、テキトーな嘘ついたりするの?」

「……別に嘘じゃない。文化祭の出し物も現実に変更するんだから」

「ただの辻褄つじつま合わせでしょ」

「そう思うなら、なんで口裏を合わせたんだ」


 並んで歩き出しながら、忍はそう問いかけた。

 和寿妃が教師に本当のことを言う機会はいくらでもあったのだ。

 体育教師に事情を話して記録を見ることも小鹿にすべてを打ち明けることもせず、和寿妃は小鹿を言いくるめさえした。


 忍の言葉に、和寿妃はムッとした表情で体当たりしてきた。


「そんなの忍くんが勝手にそっちの味方につくからじゃん」

「…………」

「っていうか、なんで忍くんこそ和寿妃の味方してくんないの。わたしの考えてたこと、なんにもわかんなかったわけ。せっかくイエティが誰なのかわかるところだったのに!」


 ぐいぐいと肩を押し付けられて、忍はとうとう遊歩道から押し出された。

 生い茂る草地に入っても和寿妃はなおも止まらない。

 ついに忍を樹の陰に追い詰め、両腕で退路を塞いでしまった。


「わたしが、あそこで小鹿先生のこと黙らせなかったら、どうなってたと思う?」


 きらきらと誠実な輝きを放つ和寿妃を前に忍は目を伏せる。

 とっくにハンドルから手を離した自転車は、横倒しになって空回りしていた。


「…………ごめん」

「ごめんじゃないよ! 小鹿先生はね、あれでも担任なんだよ。学年主任! クラス中の内申点を下げるくらい平気で」

「……和寿妃なら、きっと動くだろうと思った」

「うん!?」

「和寿妃なら、た……」

 忍は息を整えて、和寿妃を見返した。

「助けてくれるだろうって、信じてたから。あ……ありがとう」


 和寿妃は一瞬、食ってかかるような獣の目を剥いたが、すぐにため息と共にうなだれる。


「どーいたしまして……」


 そのまま、小さな頭をポスッと忍の肩に預けてしまう。

 怒りは収まったのか、あるいは呆れ返っているだけなのか、身動きを取れずにいると、あろうことか鼻先をすり寄せて、なにか嗅ぐような挙動を取った。


「や、やめろよ、本当に犬みたいだぞ」

「汗のにおいがする」

「だから、嗅ぐなって!」

「ヘビだって嗅ぐよ。忍くんだって知ってるでしょ?」


 ヘビの感覚器官は進化の過程で著しく退化している。

 視力は一般的な人間より低く、耳も聞こえない。

 だが、嗅覚は鋭い。

 種によっては口内に第三の目と呼ばれる嗅覚器を備え、そのためにしきりに舌をチラチラと動かすことがある。


「お酒と、ちょっとだけ苦いのはタバコのにおいかな。飲み屋で働くと大変だね」

「変に推理を働かせるな……」

「動かないで」


 シャツの襟から、首筋に向かって吐息がかかる。

 肌と肌で隔たりながら、さらに奥深くまで潜ろうとしているのが伝わってきて、忍は樹皮に背中を預けることしかできない。


「忍くん、気づいてる?」

「なんだよ……」

「うちに来てから、だんだん忍くんのにおいが変わってきてる」

「……おまえは一体なにを言ってんだよ」

「わたしと同じにおいになってきた」


 胸に頭を預けながら、和寿妃はうっとりと忍を見上げていた。

 暗さも相まって、まるで獲物に絡みつくヘビのようだ。

 言い方に思わず赤面した忍の唇を、指先で弄ぶように撫でる。


「うちの布団で寝て、うちのお風呂に入って、うちのご飯を食べるうちに、忍くんはだんだん、内側から作り変えられていってるんだよ。わたしと同じに」

「だから……変な言い方するなよ。普通だろ。普通のことだから」

「においまで同じきみをわたしの一部にできないのが、本当にもどかしいよ。ねえ」


 和寿妃は目を落として、忍と接する腹のあたりを指で丸く示した。


「きみのこの辺りがぐちゃぐちゃに溶けてきて、わたしの皮膚から吸収できたらいいのにって、きみを見てると本気で思うよ。これって普通のこと?」


――これは、誘惑なのだろうか?

 あるいは、罰なのだろうか。


 つまり和寿妃は、今回、忍が自分の意志に反する行動をとったことについて本気で腹を立てているらしいのだ。

 おそらく自分の細胞の一部が反乱を起こしたくらいに思っている。

 勉強のし過ぎで言い方がかなり異様だが、そういう意味だ。


 別に性的な誘いをかけているわけではない。そのはずだ。

 だが、ヘビに食われて死にたいと思っている忍には、その言葉はかなりキた。


「忍くん。ねえ、わたしはいま、きみを咬みたいなあ」


 金持ちで、頭がよくて、どんな未来でも望めるはずの和寿妃が、どうしてそんなに欲しくて欲しくて仕方ないもののように忍を呼ばなくてはならないのだろう。

 その目には、昔から逆らえない。

 忍は受け入れてしまいたくなる。そもそもそれは自分の望みだったのだ。

 においがうつるように、それは今や和寿妃の望みになった。なってしまった。


 和寿妃のうずうずしている奥歯を、体が切り裂かれるまで受け止めて、あふれる血で白い顔が汚れるくらい、ぐちゃぐちゃにされたい。

 両親から受け継いだ性質の悪い血を、和寿妃は飲み干してくれるだろうか。


『一線を越えようとした時、その時なにが起こるのか、最終的にそれを引き受けるのは誰なのか』


 鼓膜によみがえったのは、櫛志子の声だった。


『とっくと考えてみるべし』


 忍は、和寿妃の肩を両手で掴み、強く押し返した。

 ごちそうを取り上げられた、そんな表情を浮かべる和寿妃に、忍は言った。


「和寿妃、おれと刑務所に行ってみるか」

「ん……うん?」


 きょとんとしている。

 無垢な子犬の耳が見えるような頭を、忍は両手でくしゃくしゃと掻き混ぜる。

 下手くそなりにうまく笑えていればいいのだが、と彼は思った。


「タヌキの腕を折った犯人に、話を聞いてみたいんじゃないか?」

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