第6話 ようこそ先輩

「……だから、亀井くんは何も悪くないんですっ」


 腰の横で両手を握り、小さな体をくの字に折り、公星は言った。

 大きな声を上げる時、目を閉じてしまうクセがある。


 これは食べ物を咀嚼する際にも見られる行動で、主たる観測者である辰雄は勝手にハムスター的反射運動ハムハムアイフラッシュと呼んでいる。


 隣りで必死に亀井を弁護するこの小動物に、辰雄は打ち震える。いったい何を主食にしたらこんなにかわいく育つんだろう。いちご味のポッキー?

 完全に鼻の下を伸ばしきっている阿部 辰雄を、担任の小鹿は鋭く一瞥する。


「……本当ですか、阿部くん」

「あ。ああ、はい……」


 辰雄は五分刈り頭を掻きながら、公星の言ったことを肯定する。


「和田の言ったことは本当です。クラスの話し合いで、文化祭の出し物にインパクトが欲しいという意見が盛り上がったので」

「なるほど。それで許可なく学校の教室を汚損していいと勝手に判断した、と」


 嫌味な言い方だ。辰雄は思わず口元をひくつかせたが、言い返さなかった。

 もっと説教が長くなることを知っていたからだ。


「その通りです。スミマセン」

「そうですか。あなた方の話をまとめると、こうなります」


 小鹿はバシッと音を立てて、出席簿で教卓を叩いた。

 大きな音に、横に立つ公星の体がかわいそうなくらい縮み上がる。

 辰雄は愛しさのあまり思わず抱きしめたくなったが、そこは教室で、目の前の小鹿はもちろん、クラス中が前に立つ二人に視線を集めていた。


「内装の派手さで他のクラスに張り合おうとしてペンキを撒き散らした」

「はい」

「飲食提供の場で、取っ組み合いのケンカが起きたら盛り上がると考えた」

「いや、ケンカっていうか、ショー的なものです」

「黙らっしゃい。それで? ペンキで学校の制服を汚して衣装代わりにしたら、手っ取り早くて安上がりなんじゃないかと、利口な頭を使って思いついたわけですか。二歳児ではなく、高校二年生のあなた達が」


 いかにも生徒を小ばかにしたような嫌味な言い方に、辰雄は眉間に青筋を立てた。

 怒りのあまり耳鳴りがしてくる。

 いっそ現実にこの教室で何が起こったのかを暴露してやりたい気さえした。


 いや、辰雄の口はほとんど言いかけていたのだ。

 

 だがその肘を、公星が親指と人差し指の先でちょんとつまんでいた。

 ダメだよ、とでも言うように。


 気がつくと公星の小さな頭越しに、クラスの面々――額を汗で濡らした門馬や、口のはしで皮肉っぽい笑みを浮かべた宇佐美や、普段よりいっそう憂うような目をした三輪――が目に入ったものだから、教壇に超然と立つ小鹿からどう思われようが、別にどうでもよくなってしまった。


「……ハイ。その通りです。よく反省しています。スミマセン」

「あなた、そこまで頭が悪かったんですか?」

「先生が期待してくれてたのは申し訳ないんですけど実際そうみたいっすね」


 皮肉のように返すと、そこから、我慢比べじみた睨み合いになった。

 小鹿は明らかに怪しんでいる。

 と、いうよりも亀井のせいではなかった事実を認めることができないのだ。

 実際に前に立っていない忍にさえそれがわかった。


 普通そうだろう。一つ問題に対処した後で急に「実は何もなかったんです」と言われても、一たび出した手を引っ込めることはもうできないのだから。

 ましてやプライドが高く、生徒を全く信頼していない小鹿だ。


 文化祭の準備だと言い張るしかない、と忍は水道のそばで話した。

 男子の多くはそれを受け入れ、女子はいくらか懐疑的ながらも協力してくれている。

 特に文化祭実行委員の公星は、内装が破壊された件について心を痛めていたようだ。男子からの申し出に、小さな両手をぱたぱた動かしながら賛成した。


『失敗は成功のもとっていうか。わけのわからない怖いことが起きても、それをバネにして、がんばろうって思えたほうが、きっと最後は良かったってなると思う』


 だが、疑ってかかってくる小鹿がそれを理解するかは別の問題だ。


 沈黙は意外な形で破られた。


「先生」


 まっすぐに挙手した和寿妃に、クラス中がざわつく。

 優等生お得意の密告が行われるのではないか。

 その危惧が高まるなか、小鹿に許可された和寿妃は静かに立ち上がる。


「先生が心配なさっているようなことは何も起こっていませんよ」

「それは、どういう意味ですか? 大柴さん」

「大丈夫だという意味です。。つまり、誰か一人に責任を押し付けちゃいけないって」


 この和寿妃の言い方は、小鹿の好みに多少合ったようだ。

 老眼鏡の奥にあった険がわずかに和らぐ。

 物は言いよう。クラスは少し複雑な気分になった。


 小鹿はその雰囲気を知ってか知らずか、ため息と共に薄い生え際を撫で下ろした。


「とはいえ、こんな騒ぎを起こすことが理に適っているとは、とても――」

「ふふっ」


 言いかけた小鹿を、和寿妃はそよ風のような笑いで遮った。

 ぞっとした忍の予感通り、小鹿の鉄面皮が急速に硬化する。


「何がおかしいのですか。大柴さん」

「いいえ、ただの思い出し笑いなんです。先生」

「何がおかしいのかと聞いているんです」


 重ねて尋ねられた和寿妃は、静寂に妙なる音楽でも聴いているかのように、ゆったりと首をかしげてみせる。


「つまり、父の波乱万丈な高校生活についてのことなんです。——我が校の、卒業生の」


 もとから青白い小鹿の顔色は、その言葉を耳にした途端、紙のように白くなった。


「可笑しいんですよ。私は度々その思い出話を聞かされてきましたが、これがもう聞くたびに面白くって。ああ。同期生である先生は、きっと私よりも色々とご存知でしょうね? うちの父と母と、そのもう一人の友人が――」


 クラスの全員、耳を疑った。

 少なくとも忍は、小鹿の舌打ちを初めて聞いた。


「……その話はもう結構。それで。具体的にどう始末をつけるつもりですか」


 和寿妃は、数を数えるようにかざしていた両手を、さっと下ろした。


「文化祭が終わったら、教室はクラス全員で一生懸命に清掃します。制服についても、手段は色々とあるでしょう。幸い、というべきか、亀井くんは後のことをよく考えて汚したようですから」

「そうですか。では、問題ないということですね?」

「はい。なにも問題ありません」


 ひと仕事終えた牧羊犬のような笑みを、小鹿はさも憎々しげに首肯する。

 なるほど、と忍は、思う。

 和寿妃が小鹿にいつも強気に出られる理由を悟った気がした。

 つまり、和寿妃の両親と小鹿は同級生で――教え子たちには到底聞かせられないような思い出話が色々とあるらしい。


「……じゃ、あの、先生」


 喉をカラカラにした門馬の声に、小鹿は応じる。


「なんですか、門馬くん」

 

 門馬はもぬけの殻になった生徒指導室を見ていたのだ。

 亀井の親の車もすでに消えていたが、もう処分は決まったのかはわからなかった。


「これで亀井くんは停学せずに済みますよね」


 小鹿は老眼鏡の下で、二度、三度、不可解そうに瞬いた。

 それはまるで、なぜおまえがそのことを知っているのかとでも言いたげな表情で――門馬が慌てたように言葉を継ぎ足す。


「ぼく達、亀井くんの家の車を見ただけなんですけど、それで」


「……ああ」


 その時、小鹿は何か得心いったような、嫌な目の細め方をした。

 まるでせせら笑うような皮肉な口ぶりで彼は言った。


「彼は体調不良を訴えたので、保護者の迎えで早退しました。あれだけ多量のペンキを頭からかぶったのですから当然でしょう? あなた方が何をしようとしていたのかは知りませんが、あんなバカな真似はもう二度としないように。『働き損のくたびれ儲け』。それで構わないと言うのなら、もちろん先生は構いませんが」

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