第5話 和寿蝶
走っていないとはとても信じられない、見事な足さばきとスピードで廊下を直進する和寿妃は、腕にしがみついてくる蝶子に、にっこりと微笑した。
「誰がやったのか調べるのは不可能じゃないよ」
「え? えー……?」
蝶子はなんとか足止めしようと、トイレに誘ってみたり、急に抱き着いてみたり、色々と試してみたのだが、和寿妃は止まらなかった。
もうこうなったら話に乗るしかない。
「でも、うちのクラスの人がやったわけないじゃん。みんな持久走してたんだよ」
「うん……うちのクラスの人数って覚えてる?」
「えーと……」
「三十人。男子十五人、女子十五人。」
「そうだっけ?」
「そう。貉さんが来ていないから女子は十四人。男子はペアが余るんだよ」
「んっ……んんっ?」
下り階段に差し掛かり、和寿妃はふわりとスピードを緩めた。
ごく自然に手を取るようにして、蝶子をエスコートする。
宇佐美や亀井、鳳とは全く違う柔らかな手つきに、蝶子はドキッとした。
「二人ずつペアを組んで、持久走のタイムを計測するよね。それで、一人一回ずつ走る。ラップタイムを測って、目標より遅れてるとか良いペースだとか、声かけする」
「う、うん……」
「十五人だとね。二人組が六つと、三人組が一つできる」
「……でも、結局、みんなが走らないといけないのは一緒じゃん」
「そうだね。二人組だと交互に走ってお互いの計測をしあうけど、三人組だと、どうかな」
慈愛に満ちた瞳で優しく微笑まれて、蝶子は不覚にもときめく。
なぜか胸がドキドキして、まっすぐに和寿妃を見つめ返せなかった。
「え……っと」
もじもじしながら蝶子は考える。
ダルいから体育は嫌いだ。
それも持久走となるとどうやってサボろうかとばかり考えてしまう。
だが、一年時では、三人組を作らされたことは確かにあった。
ラッキーと感じた記憶がある。
「……三人組の中で、二人と一人に分かれて走る。一人で二人の計測をしないといけない一方、二人で一人を計測する……ってこと?」
「その通り」
「はわぁっ」
さっきから足止めのために、しきりと抱き着いていたせいだろうか、和寿妃からは、ハグが大好きだと思われているらしい。
踊り場で唐突にギューッと抱きしめられて、蝶子は息が止まりそうになる。
身長は和寿妃のほうが低いが、腕力が強い。
つむじのかわいらしさと、たくましい腕のギャップに、蝶子はもうどうにかなってしまいそうだった。
「だから……わかるよね? わたしの考えていること」
「んっ……うん……」
するりと顎をとられた途端、蝶子の背骨にびりびりと電流が走った。
磁石に引き寄せられる砂鉄のように、蝶子は不思議と自分の体を和寿妃にすり寄せてしまう。その体を支えるように、和寿妃は蝶子の足の間に膝を入れた。
「あっ……」
「あの体育の時間に、完全に体が空いた人が、男子のうちに一人はいたってこと」
「お、おおしばしゃん……だ、だめぇ……」
「うん? 何がダメなの? ああ、そうだよね。たったそれだけで決めつけちゃいけないと、わたしも思うよ。だから、よーく調べないとね」
よーく調べる。その響きの甘美さに、蝶子は肩を跳ねさせる。
男子との付き合いでいまだかつて経験したことのない甘い痺れに、びくびくと肩を跳ねさせる蝶子に、和寿妃は「大丈夫? そんなに震えて」と尋ねた。
「ん……うん……っ」
「寒い? もしかして、貧血?」
「ち、違う、けどぉ……っ」
「でも、歩くの辛そうだよ。ごめんね、ちょっと触るけど、いい?」
「ひゃ……っ」
肩に腕を回され、膝に手を入れられ、うそうそうそと蝶子は脳内で悲鳴を上げる。
お姫様抱っこ、だ。
彼氏である鳳からも、まだ、されたことがないのに。
「ごめんね。ちょっと急ぐから、職員室に寄ってから保健室に行くのでいい?」
「え……っこ、この状態で行くのっ?」
「だめ?」
甘えるように首をかしげられて、蝶子は胸がキュンとした。首にしがみついて「ダメジャナイッ」と恥も外聞もなく声を上げてしまう。
実際、蝶子を連れて歩くよりも、よほど早く職員室にはついた。
両手がふさがっている和寿妃に頼まれ、蝶子はおずおずと職員室へのドアを開いた。和寿妃は平然と入室し、体育教師を呼んだ。
「失礼します。鵜飼先生、おられますかー」
鵜飼は、ちょうど机で書類を整理しているところだった。
眼鏡をかけた童顔の女性で、新任であることを差し引いても、ジャージ姿が教師というより学生のように見える。
「あらー。あらー? 仲良しねえ」
お姫様抱っこしている女子二人を見て、鵜飼は目を丸くした。
「……そうなんすよぉ」
蝶子は赤面したままなんとか笑顔を作り、ヤケのようにピースまでしてみせた。
だが、きょとんとして黙っている和寿妃のせいで、まったく白けてしまう。
鵜飼は慌てたように「それで、仲良しさん達はどうしたの?」と尋ねた。
「二年二組の持久走の記録用紙を見せてほしいんです」
「……あら? じゃあ、入れ違いだったかしら」
「え?」
蝶子は深く息をつく。さんざん恥をかいた甲斐があったようだ。
鵜飼は不思議そうに首をかしげて「さっき、二組の男子が来て、記録を見せてくださいって、あなたと同じように頼みに来たの」と言った。
「二組、文化祭の準備をすごくがんばってるのね。トラブルがあって、出し物を急遽変えないといけないから、記録をもとに体力のある生徒を選抜するんでしょう?」
「……なるほど。そうだったんですね」
和寿妃は、笑みを崩さずにうなずく。
鵜飼には、その来訪者がよほど意外だったのだろう、興奮したように喋り続ける。
「実は、生徒にはああいう記録って、あんまり見せちゃいけないのよ。個人情報というか、やっぱり成績にまつわる資料だし。悪口とかにも使われちゃうことあるから。
でも、あんなに一生懸命なところ見せられると、先生として応えてあげたくなちゃって……。ねえ、三輪くんってちょっと独特な雰囲気だと思ってたけど、すごく真面目な、いい子なのねえ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます