第3話 貉の呪い
最初に現場の写真を撮ったのが、誰だったのか、忍にはわからない。スマホカメラの間抜けなシャッター音に、出入り口に溜まっていた生徒たちは失笑した。
この惨状は、一周回って
緊張していた空気が一気に緩み「なにこれ」「黒魔術かよ」などと言いながら、スマホ片手に教室の中に入っていく。
遅れて教室に入った和寿妃は、換気のために教室の窓を開け放つ。シンナー臭くてたまらなかった。学級委員らしく周囲を見回して指示を出す。
「みんな、とにかく貴重品の確認をしたほうがいいよ。盗難かもしれない」
「……そ、そうだね。何か無くなってるものがあったら大変だ」
もう一人の学級委員・門馬は、和寿妃の言葉にはっとした顔でうなずいた。横倒しになってボタボタ滴っているペンキを、貉の机から引っ張り起こす。
忍が見たところ、まだ半分以上残っていた。
「まず自分の机がどこだかわかんないんだけど……」
「つーか、これ、床の汚れ落ちるか?」
「いやもう、本気でありえないんだけど」
泣きそうな声を上げたのは内装チームの椋木だ。美術部員として全力を尽くした、段ボール製の飾りが、目の前でゴミの山と化している。
「そりゃコンセプト変えるから、作り直しって話は出てたけど……こんな……」
「ムクちゃん……」
同じ美術部の優瓜も、かける言葉が見つからないようだ。
忍の机は、教室のはしに向かって薙ぎ倒されていた。
ふと教室の後ろから机の倒れ方を俯瞰して、忍はぞっとする。
窓際の一番後ろにある貉の席。すべての席は、そこから衝撃波でも発されたかのように同心円状に倒れていた。
「貉の呪いだ……」
クラスメイトの
呪いだ、呪いだ、と青ざめて言い続ける葛見を、川尾が怒鳴る。
「ちょっと、適当なこと言わないでよ!」
「だってそれ以外に何があるんだよ……体育祭に続いて文化祭もコレだぜ……あいつは、俺たちのことを恨んでるんだよ……!」
「ふざけないで! なんで私たちが貉に恨まれなきゃいけないのよ!」
川尾も怖いのだろう。金切声を上げて言い返した。
門馬がおろおろと二人の間に割って入る。
「お、落ち着きなよ。学校に来てない貉さんにこんなことできるわけないでしょ」
「じゃあ、誰がやったって言うのよ! 門馬、あんたなの!?」
「なに言ってんだよ、ぼくじゃないよ!」
「春奈、やめなよ」
見かねたように川尾の肩を掴むのは、同じクッキング部の牛木だ。
「さっきまでみんな合同体育で持久走だったんだよ。誰もこんなことできないから」
「そんなのわからないじゃない! 誰がいたとかいないとか把握してるわけ!?」
「いや、少なくとも、門馬はいたから」
「猿渡がガン見してたし……」
ヒステリックに喚きはじめる川尾に、他の男子もおずおずと声を上げる。
そう、持久走でペアを組んでいた。記録用紙も教師に提出したはずだ。忍も全員の動向を把握していたわけではないが、相互監視の状況は自然とできあがっていた。
と、すると、ここにいない人物が犯人ということになってしまうのだが。
――貉の呪い。
その不吉な言葉が、一同の心をよぎった時、亀井が急に奇声を上げた。
忍も思わず身をすくませるような大声で、女子の何人かは腰を抜かしてしまった。
「ちょっと亀井、急に何、ふざけないでよ!」
「いやいや、いやいや」
「いやいやじゃないから! あ、あんた一体なんなの! 気持ち悪い!」
渾身のネタが成功したかのようなニヤニヤ笑いを浮かべて「門馬くん、それを俺にくれよ」と、手に提げているペンキを指さす。
「え。あ、うん」
「よしよし」
門馬からペンキを受け取った亀井は満足げに教室の中央、ゴミと化した段ボールを踏みつけて立つ。寸前に、何ごとかを察知したのだろう。付き合いの長い蝶子が、珍しく焦ったような声を上げる。「女子、退避!」
その瞬間、鋭い気合を上げた亀井は、頭からペンキを被った!
クラスは戦慄した。――なんだ、一体、何が起こっている。
だが、顎から胸からシャツの袖からボタボタと赤いペンキを垂らした亀井が、すっと息を吸い込んだ直後に発した言葉は、一同の恐怖をさらに掻き立てるものだった。
「カバディ」
カバディ。その鬼ごっことドッヂボールを掛け合わせたようなインドの国技のルールを、多少なりとも知っている人間は、亀井が何をしようとしているか察した。
「カバディ・カバディ・カバディ・カバディ……」
なんだか知らんがタッチしに来ようとしている――あのペンキまみれの体で!!
蝶子の迅速な誘導で、女子は全員、廊下に退避していた。
リーチが長い。肺活量もある。前傾姿勢を取り、その長い腕は、ぽかんと突っ立っている鳳に伸びた。「ひええっ」鳳は寸でのところでかわした。
「え、え、え、なに! なんで俺!?」
「いいぞ亀井、そのスカし野郎をぶっ飛ばせ!」
「ひでえ! やめてくれよ~!」
ほかの男子も例外ではない。忍は背中を叩かれ、猿渡はボディーを食らい、「ペンキ付いたら攻撃側な!」とのことで、即興カバディに混ぜられてしまう。
だが、亀井と辰雄の一騎打ちは圧巻だった。辰雄はペンキでベトベトになりながら亀井の襟を掴み「いい加減にしろおおっ」ぶん投げた。
レフェリーの宇佐美は掲げた手刀を力強く振り下ろす。
「~~~~ッ一本!」
これには、わっとクラス中が沸く。
「——なるほど。」
パチパチと乾いた拍手をする、ただ一人の例外を除いて。
「気が狂ったような騒ぎだと聞きつけて来てみれば、うちのクラスの文化祭準備は実に捗っているようですね。いや、本当に空いた口が塞がりません。皆さんの自主性を尊重した先生の判断はまったく正しかったようです」
雪を被ったような白髪と、針金のように研ぎ澄まされた長身。
仕立ての古いスーツの袖はチョークの粉で汚れている。
担任の小鹿は、銀縁の老眼鏡の下で、般若の形相を剥いていた。
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