第14話 the end of first half
『大人同士の話し合い』は滞りなく済み――忍は自室で泊り支度を整えていたため、その会話に混ざることはなかったのだが――別れ際、父は無言で息子を抱き締めた。
頭から腰までしっかりとホールドされ、酒とタバコの臭気がまとわりつく。
「忍……しのぶゥ……ッ」
父は泣いている。
全く予備動作のない、唐突な仕草に組み込まれ、忍はしばし呆然とする。
櫛志子も予想外だったのだろう。肩にかけたバッグの紐がずり落ち、しかしあまりにも長い抱擁だった。割って入ろうとする櫛志子を、忍は片手を挙げて留めた。
「別に家出するわけじゃないし、そんなに泣かないで大丈夫だよ」
そう平坦な声で告げながら、自分でもびっくりするほど忍の心は動かなかった。
声も肌触りも、すべて薄い膜を隔てているように感じる。
離せ、という意味で背中を軽く撫でる。父の望む、無垢で弱いばかりの幼少期にかえってあげられないことを、ほんの少しだけ申し訳なく思った。
「おめのおんつぁん、あれぁ深刻だっぺなあ」
「かなり酔ってたんで……。いつもああじゃないです」
櫛志子がいなければ、気安く触るなと忍も手が出ていただろう。そして父はカッとなってやり返し、部屋を荒らすほどの取っ組み合いになる。よくあることなのだ。
忍も父も、ほかに鬱屈の吐き出し方を知らない。
「あんれまぁ男やもめの恐ろしき。早ぇとこ良い嫁さんもらわねばな」
「いや……仕事人間だし、そんな気ないと思います」
「おめのおんつぁんの職場、トリノイ薬品だっぺ?」
「……え」
「おらぁ支部長に顔が利っからよ。仕事人間ならなおのこと上司の勧めで見合いの一つや二つすっぺし」
飄々とした口ぶりに、忍は背筋が凍る気がした。はじめから冗談ではなかったのだ。
マンションのエントランスで、衣類を詰めたバッグを握りしめる忍に、櫛志子は「そうだよ」と言った。
「
「…………」
「忍ぐん。おめえ、そんなこともわからんのけ?」
憐れむような声だった。
櫛志子の左手が、スルリと忍の頬に絡む。忍はその薬指に冷たい指輪の存在を感じてゾッとする。すべてがその手の中にあるとでも言いたげな傲慢さだ。
和寿妃に、似ている。
「ふふ……恐えぇのけ、そったらビクついて。ん? それとも嬉しいんけ。カズは優しいべ。優しくて優しくて……ど変態の忍ぐんには物足りねえっぺ」
「な……なにを言って……」
「めんこいなあ、忍ぐん」
大きな手に側頭部を丸ごと鷲掴まれ、忍は全身を震わせる。暗がりで見つめさせられる櫛志子の目は興奮した犬のように血走っていた。
あ、食われる。
舌なめずりする櫛志子の存在が、忍の目の奥で膨らんでいく。顔が近づいていた。
寸前、和寿妃は叫んだ。
「はーなーれーてー!」
構えたスマホにフラッシュを焚いて、男子高校生に襲い掛かる中年女性をパシャパシャと連写する。白く切り取られた光の中で、櫛志子は喉を鳴らして笑った。車を降りた和寿妃へとつかつか歩み寄り、ぼかっと頭をはたいた。
「近所迷惑だ!」
「ママが変なことしようとするからだよ! だから二人っきりにしたくなかったのに。忍くん!忍くんったら、もう!」
たまげて腰が抜けてしまった忍の肩を、和寿妃は力強く揺さぶった。
ようやく黒目が戻ってくると「よかったぁ~」とへたりこむ。マンションの前の階段に二人座り込んで、和寿妃は言った。
「ごめんね、ちゃんと言っておけばよかった。うちのママはね、若くて可愛い男の子に目がないの。可愛い可愛いって言いながら、ほんとにひどい意地悪するんだよ。そのせいでお兄ちゃん二人とも出て行っちゃったんだから」
「…………えぇ……」
「なんったら人聞きの悪いことを。ウブで面白えから遊んだだけだっぺ」
「もう! この写真はパパに提出させてもらいますからね」
「おお、そうしてくんろ。近頃とんとマンネリでよ、母っちゃは困ってんだ」
あけすけなく言いながら、櫛志子は車にエンジンをかける。
さっと膝を払った和寿妃は「行こ、」と忍に手を差し伸べた。
見上げると、ヘッドライトに照らされた和寿妃は本当に眩しくて、忍はその手をとることをためらってしまう。どうして、ヘビの身代わりになどさせてしまったのか。
だが、もう後戻りはできない。忍がその手を取らなければ、和寿妃はずっと悲しいままだ。人のため、みんなのためと言って、大きな欠落を抱えてどこまでもひた走る和寿妃を、忍はなんとかして繋ぎ止めなければならなかった。
忍は和寿妃の手をかたく握る。
たとえ二人を待つものが、ぽっかりと口を開けた暗闇だったとしても。
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