第13話 君は食ったらいなくなる

 ぴ、と通話を切る音を、忍は聞いている。

 エンジンに紛れ、櫛志子と父の会話はほとんど聞こえなくなった。忍は吐き捨てられたガムのように身を縮めている。自分を恥ずかしいと思った。


「はい、お泊りして大丈夫だって。よかったね」

「……ああ、うん」


 和寿妃がにこにこ笑って、電話を返してくる。

 忍は小さく笑って、受け取った。これも忍を心配した父が契約したものだ。

 スマホはまだ早い、と言われて渡されたきり、買い換えられていない。

 忍も要求しなかった。

 絡みついてくるような愛の示し方をする父が、忍はたまに怖くなる。


「ウチで男手を借りたいっつって話つけたべな。おめんとこのお父さんおんつぁんも誘ったんだがフラれっちまってよ。母っちゃも衰えたもんだべ」

「いや……親父も仕事してるので……」


 運転しながら話しはじめる櫛志子に、忍は弱々しくしく笑う。

 酔った父の苦りきった様子が目に浮かぶようだった。忍を子供の時に預かってもらった経緯があるため、強く出られなかったのだろう。


「すいません……なんか、迷惑かけて、電話とか……」


 ぼそぼそと謝る忍に、櫛志子は間をおいて「んだべなぁ」とため息をついた。


「カズ、おめ忍ぐんチはわかんのけ?」

「ん? うん」

「教科書だの服だの取りに寄らしてもらうべ。母っちゃもちょっくら挨拶してくっからよ。おめえは案内するべし」

「はーい。えーと、まだ真っすぐで大丈夫だよ」

「……んで、忍ぐん」


 櫛志子に呼ばれて、忍は顔を上げる。


「言いたかねえけども、おめのおんつぁんはチと病んどるが」

「……はぁ」

「はぁ、ではねえ。みずから自覚すっぺし。おらぁ電話で話したが態度が嫁を束縛するモラハラ夫のそれだっぺ。こったら美人から電話受けてもシラーッとしとるしよ」

「ええと……はい」


 いや、それは電話だから顔がわからないし、とは返さなかった。おそらく対面でも仕事人間の父は、櫛志子に関心を示さないはずだ。むしろ美女は警戒するだろう。

 忍の母は、人形のような顔立ちをしていた。


「おらぁそったら親は好かね。仕事柄、農家の母っちゃの愚痴はよっぱら聞っけどよ、早えうちに距離を置くなりせねばしまいには力づくだべ。男ってなそういうもんだ」

「えっ? 本当? パパもそう?」

「あーや、なんったらこと言うべかカズは。パパは紳士だべ」


 子供らしく口を挟む和寿妃に、櫛志子は当たり前のように返す。

 忍は瞬いた。和寿妃の父には何回か会ったことがある。和寿妃は怒らせると怖いと言うが、いかにも人の良さそうな男だった。


「とにかくだ、親は当てになんねえ、ほかに頼れる身寄りもねえったら仕方ないしゃあんめえべや」

「……ありがとうございます」

「まぁ……折見ておんつぁんには見合いのクチでも紹介すてやっぺし。大丈夫大丈夫でえじでえじ。ワラスっ子バンバンこさえりゃ落ち着っから」

「はぁ……」


 場を和ませようとしているのだろうが、櫛志子の冗談は忍には方言も意味も少しきつすぎる。櫛志子は和寿妃の誘導で、マンションの近くに駐車した。


「カズはここで待っとるべし」

「えー!」

「えーじゃないが。大人同士の話し合いだべ。すーぐ戻ってくっから」


 不満げな娘の頭を、母は車窓越しにぽんぽんとはたいた。


 自宅のマンションを和寿妃の母と歩く。そのことが忍には奇妙だった。

 父と共に大柴の家に行ったことは何度もあるが、その逆はない。特に櫛志子は祖母に和寿妃を預けて家を空けていることが多かった。


 オートロックを開錠して、エレベーターに乗り込む。

 櫛志子は腕組みして沈黙していたが、不意に目を開いて言った。


「忍ぐんはあれか。ファザコンか?」

「は……?」

父親おやずのことが好きなんけ」

「ち……っ違いますけど、え、な、なんでですか」


 標準語だった。

 呆気にとられる忍にひとつ首をかしげて「というより、君は誰に対してもそうなんだな? 和寿妃に対しても私に対しても。本質的に嫌がることができない。むしろ傷つくことを自分から望んでいるようにも見える」と矢継ぎ早に指摘してみせる。


 顎に当てた形のよい人差し指を、すっと忍に向かって立てた。


「ずばり! 忍ぐんはマゾだべ」

「…………そんなことは、知りません」


 なんだふざけているだけかと、忍は脱力した。なんなんだこの女は。忍が成長したということなのか、小学生の頃に感じた印象とずいぶん違う。

 ちょうどエレベーターが着いた。降りるタイミングで櫛志子は言った。


「したっけ自分勝手なカズとは相性バツグンだっぺ」

「だから、おれは別にそういうのでは……」

「おめが喜ぶならカズぁナタでも牛刀でも持ち出すが」

「は?」

「忍ぐんが死にでえ死にでえって頼めば喜んでぶっくらかすべや。カズは」


 櫛志子は品の良いシャツにダークグレーのセットアップを合わせていた。

 その襟首に、自らトンと手刀を当てて「今に噛む程度じゃ済まなくなるべ」と言う。忍は、歩き慣れたマンションの通路が、急に冷え込んだ気がした。


「か……和寿妃が、何か言ったんですか」

「当たっとるんけ」


 カマをかけられたらしい。言葉に詰まる忍に、櫛志子は冷ややかな眼差しを返す。


「まあ色々と耳には入ってくっからよ。立場上、不健全な青少年育成は見過ごせねえべや。おめのおんつぁも。おめ自体も」

「何が言いたいんですか」


 声に力のこもる忍に、櫛志子は少しも表情を動かさない。ただ、肩をすくめた。


「今はなんも。しかし、とっくと考えてみるべし。おめが一線を越えようとした時、そん時なにが起こるのか、最終的にそれを引き受けんのは誰なのか」

「おれは……」


 忍は答えられない。

 忍は、白妙に食われたいと思う。今でも思っている。

 その一方で、和寿妃はヘビの身代わりになると言う。わたしにはそれができると、自信満々に言った。そのために、忍の耳を噛んだ。唇をなぞった。

 胸が苦しくなる。

 その果てにあるものを、忍は少しも想像することができない。

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