第10話 狸穴
渡すと約束した二つの定規――忍には穴の空いたオモチャにしか見えない――を手の中で弄びながら、和寿妃は言った。
「まあ、門馬くんと仲が良いのかくらいは聞けるといいよね」
「おまえがいきなりそんなこと聞いたらおかしいだろ」
「そう? 仲が良いなら、こうやってプリントを届けに来るのもわたしより門馬くんのほうが適任だと思うけど。同じ学級委員だし、男の子だし」
上ってきた階段をちらりと見下ろしながら和寿妃は言った。
「あれって掲示板開設当初の書き込みでしょ。門馬くんが作ったページを、貉さんが確認して、問題のないことを知らせるためのコメント」
ホームページ作成は『2年2組のホームページ』という課題を、クラスの一人ひとりが授業で得た知識をもとに作成するというものだった。
完成した全てのサイトを教師が評価し、最も優れているものを、クラスのホームページとして実際に稼働させる。
パソコンクラブ部員の面目躍如というべきか、トップを取ったのは門馬だった。
「時間帯的には授業中なんだよね。数分でコメントしてたし、書き込んだ時にそばにいたんだと思う」
「単に席が近かっただけじゃねえの」
視聴覚室のパソコンは三台おきに置かれており、席順は出席番号で決まっている。忍は席の近さなど覚えていないが、貉と門馬は名前が同じ「ま」行だし、ありえない話ではない。
だが、と忍は思う。
「仮に二人の仲が良かったとして、なんで不登校のタヌキが、おまえとサルの変な噂を流さなきゃいけないんだよ。おまえ、なんか恨まれるようなことしたのか?」
「うーん……わたしと門馬くんが同じ学級委員だから、ヤキモチとか」
「はあ……? いや、つーか書き込みの時期的におかしいだろ」
掲示板の稼働が五月のはじめ。
貉の不登校が始まったのは六月の体育祭。
『イエティ』の書き込みが七月の後半。
貉がイエティだとすれば、不登校になってからそんなイタズラをしたことになる。
不審者から腕を折られるような被害にあった貉が、なんでそんなタイミングでヤキモチを焼かないといけないのかという話だ。
「まあ、本人に聞いてみればわかるよ」
「聞く!?」
不登校の人間にそんな意味不明な疑いをかけた上に、正々堂々と問いただそうと言うのか。忍はさすがに止めようとして、だが、和寿妃は貉の部屋をすでにノックしていた。
二階の廊下の中ほどにある部屋だ。
忍の視界をふさぐようにして、内側から、がちゃりとドアが開く。あれ、ドア越しにしか会話したことがないんじゃなかったか――きょとんとした忍は、次の瞬間、ドアの影から突き出してきた気味の悪い腕が和寿妃をズルリと部屋に引っ張り込んだのを見て愕然とした。
「か、和寿妃ッ!?」
すでにカギがかけられているらしい。忍はガチャガチャとドアノブをひねり、名前を呼びながらドアを繰り返し叩いたが、部屋からはなんの応答もない。
「和寿妃! おい、和寿妃っ!!」
忍は、和寿妃が中で何をされているのか考えるだけで怖かった。古い家だ、なんとかドアをぶち破れないか、いやそれよりも家の人間に相談して、だが貉の母がベッドから動けるとも思えない。イエティだかなんだか知らないが、ドアの前であんな話をしたのが迂闊だった。
「無事なら返事しろ、和寿妃……和寿妃ッ!!」
その時、回し続けたドアノブの感触が急に軽くなり、忍は廊下の壁に腰を打ち付けた。次いで部屋から放り出された和寿妃が胸にぶつかってくる。
「うるせえなあ……」
思わず抱きとめたところで、地を這うような低い声を浴びせられる。
うすく開いたドアから、
「人んちで騒ぐんじゃねえよ、バーカ、死ね、ブス、タコ」
「……えっ」
「ああああぁぁムカつくムカつく、うぜえ、喋るな、知らねえ野郎が気安くあたしに話しかけるな! 警察呼ぶぞ!!」
貉の放つ剣呑な空気に、忍は圧倒された。会話したことがないので知らなかった。まさか、こういう性格だったとは。
「それで……」中で何をされていたのか、髪から着衣からすっかり乱れた和寿妃は、呼吸まで荒げている。「貉さんて、門馬くんのこと好きなの?」
今聞くのか。
忍はぎょっとしたが、貉が平然と「あんなクソデブどうでもいい」と返したのにも驚いた。和寿妃はさらに尋ねた。
「ねえ、あなたはイエティを知ってるの?」
貉は、への字に曲げていた唇を、わずかにまくれあがらせた。
鋭い前歯を覗かせて、貉は笑う。
「おまえは両腕じゃ済まないかもな」
「…………!」
その発言が含む物々しさに、忍は咄嗟に和寿妃を抱く腕の力を強める。
まるでイエティに両腕を折られたとでも言いたげな口ぶりだ。
貉は忍を嘲笑うように言った。
「そうだ、精々そうやって大事に抱えてろ」
「待ってよ。それってどういう意味なの?」
「うるせえ、死ね、二度と来るな、ブス」
なおも尋ねようとする和寿妃に、貉は乱暴にドアを閉めることで答えた。続けざまにカギをかける音が響き渡る。あまりにも乾いた、無常な音だった。
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