第8話 グミパーティ

 和寿妃とは住宅街にぽつんとあるコンビニの駐車場で合流できた。


 入口の前に立ってパックの牛乳をちゅうちゅう吸っている姿は目立つ。

 忍の姿に気がつくと、店先のごみ箱にポイッと捨てて駆け寄ってきた。


「大丈夫だった?」

「……うん」


 タイミングが良かったらしく、心配していたほどバスは混んでいなかった。

 振動で揺れるスニーカーの靴紐を小さいヘビみたい……などと呆けていたら、あっという間に到着してしまい、忍は自分でも拍子抜けしている。


「大変だったのによく来たねえ。おなか空いてない? グミ食べる?」


 まるで孫を出迎えるおばあちゃんみたいな口ぶりだ。実際、おばあちゃん子だから口調はうつっているのだろう。認知症が進んで今は離れてくらしているようだが、小学生の頃は忍もよく世話になった。


 手のひらにフルーツグミの袋を逆さにドサドサと振られて「多い、多い」と忍は言う。咄嗟に両手で受け止めなければ地面に落ちていただろう。

 フルーツをかたどった小さなグミからは、香料の甘い香りが立ち上っている。

 確かに昼を食べ損ねてはいるのだが、こんなに両手いっぱいにもらっても困る。


「ひとりで来られて偉かったね。もう大丈夫だからね」


 おまけに、忍の手が塞がっているのをいいことに、和寿妃は背伸びしてよしよしと頭を撫でてきた。腕の力が強いので、無理くり屈まされることになるのだ。

 小さな手がわしゃわしゃと後頭部を掻き混ぜ「まあまあ、きれいなお耳ねえ」、と穴だけが空いているまっさらな耳をくすぐる。


「や・め・ろ!」


 さすがに怒鳴ると、和寿妃はますます嬉しそうな顔になった。


 両手が空くまで身動きがとれない。

 和寿妃の手でつまんで交互に食べながら、二人は話した。


「学校で、みんな心配してたよ」

「みんな? 誰だよ」

「川尾さんとか、猿渡くんとか」

「調理チームの進捗の心配だな」

「亀井くんが、せっかくならもっといい肉食わせてやればよかったって」

「そういう問題じゃないだろ……」

「あと、宇佐美くんがマンガ早く読んでほしいって」

「読まないって言ってるのに……」


 宇佐美は陽キャのわりに漫画アニメの類が好きらしかった。

 忍にずっとメールで送ってきたリンクも、フィッシング詐欺などではなく、ウェブコミックのリンクで、なんでも「超大御所少年漫画雑誌に五十代デビュー新人の激アツい読み切りが代原で載ってネットで大バズりするとかいうミラクルが起きてそのまま連載は取るしアニメ化とかいう噂もあるし今度出る新刊の中身が今ならネットでタダで読めるんで読めし絶対読んで!」ということらしい。


 忍には何を言っているのかほとんど意味不明だったが、とにかく宇佐美は熱狂的なファンらしい。なにしろ律儀にリンクを一話ずつ送ってくるくらいだ。

 人間嫌いの忍からすれば、なんでわざわざ人間が泣いたり笑ったりするところを見ないといけないのかという話なので、結局読んでいないのだが。


 ようやくグミが片付いて、忍はべたつく両手をはたいた。


「タヌキの家に行くんだろ、おれはここで待ってるから、さっさと行ってこいよ」

「なんで? 一緒においでよ」

「関係ないおれが行ったらおかしいだろ」

「でも男の子が来たらとっても喜ぶと思うよ」

「はあ……?」


 一体どういうやつなんだ、と忍はなんとなく疑わしく思った。

 タヌキ――ムジナ 百合絵は、六月にあった体育祭の当日を境に学校へ来ていない。


 忍の中で、貉の個人的な印象はひどく薄い。

 なんとなくソバカスのある垂れ目の女、だったような気はするのだが、誰かと親しくしている様子を見た覚えがない。

 だからこそ学級委員の和寿妃が、こうしてプリントを届ける係に任命されているわけだが。


 いや、印象が薄いのは、彼女が不登校に至った経緯があまりにも衝撃的だったためだろう。体育祭前夜、貉は何者かに襲われ両腕を骨折させられていた。


 この田舎で起こったショッキングな女子高生襲撃事件は、翌朝のニュースにも取り上げられ、学校側は急きょ体育祭をやるかやらないかの決断を迫られた。

 結局、体育祭は代わりなく執り行われたわけだが、生徒は少なからずショックを受け、二組の成績はさんざんなものとなった。


 幸い犯人はすぐに捕まったのだが、両腕が回復しても貉は学校に戻ってこなかった。


 飛び跳ねるように前を歩く和寿妃の後について、忍は貉が住むというひどく古めかしい一軒家を見上げる。

 立派な戸建てだが手入れをあまりしていない様子で、石灯籠は倒れているし、コンクリートの塀は苔むしたまま、うかつに触るとそのままボロボロ崩れてくる。


「……やっぱり、おれは外で待ってたほうがいいんじゃないか」

「えっ」


 ぐずぐずと言い出せずにいたら、和寿妃は呼び鈴を押してしまっていた。


「ハイ、もしもし」


 ノイズまじりの男の声で応答があり、慌てて通話口に向かって名乗る。


「すみません、北山王高校の大柴と申します」

「あー、大柴さん!いやどーもお世話になっとります。待ってくださいね」


 玄関口が開いて、作業着姿の中年男性が庭に出てくる。

 恰幅がよく、カーキ色の作業着のファスナーがはじけ飛びそうだ。背は低く、禿げあがった頭といい、丸い眼鏡といい、まさに山から下りてきたタヌキの風貌だった。


「お忙しいところへ押しかけてしまってすみません。百合絵さんは……」

「はい、百合絵ね! いつも通り部屋にこもってますよ。も~わが子ながら一体ナニしてんだか。エッ、おとこのこ!? 男の子がいる!?ユリに男の子の友だちが!?」

「まあ、おじさまったら」


 急に水を向けられて、忍は固まった。

 和寿妃は何がおかしいのかくすくす笑っている。


「私これからまた仕事なんですけどもね、残念だなあほんと、ゆっくりしてってくださいね、大柴さんが来るのは妻も楽しみにしてるので」

「そうでしたか、お疲れ様です。お気をつけて行ってきてくださいね」


 微笑してすっと一礼する和寿妃に、タヌキの父はすっかり頬をゆるめ、名残惜しそうに車を出した。何をどうしたらクラスメイトの父兄にこんなに気に入られるのかと、忍は内心、隣りにいる学級委員が恐ろしかった。


 和寿妃はにぱっと笑って「ね? 喜んでたでしょう」と自慢げにする。

「自営で工務店をやっているらしくて、家にもしょっちゅう帰ってくるみたい。奥さんと百合絵さんが心配なんだろうね」

「……ふうん」


 忍は頭を掻いて、世の中いろんな父親がいるものだと思った。


「娘の方とも、よく話すのか?」

「ううん。お父さんとお母さんにプリント渡してからドア越しにちょっとお話する程度かな。それも無理な時は無理だし」

「そうなのか」

「うん。せっかく同じクラスなんだし、文化祭を機にまた学校に来てくれたらと思うんだけどね」


 庭を突っ切った和寿妃は、勝手知ったる他人の家とばかりに玄関のドアを三回ノックする。答えはなかったが、カギのかかっていないドアを引いて開けた。


「こーんにーちはー大柴ですー」

「はあーい」


 奥から細い声が聞こえる。さっさと靴を脱いで上がる和寿妃に、忍は迷う暇もなく玄関へ上がった。廊下の中央こそ空いているが、中はどことなく雑然とした雰囲気だ。

 というか、汚い。天井にはクモの巣状のホコリが見え隠れしている。

 なんとなく母と暮らしていた家を思い出した忍は、はたと気づいて言った。


「……父親はともかく、おれみたいなのが急に来たら、母親は怖がるんじゃないか」

「わは。ここのお母さんはそんなこと気にしないよ」

「いや、でも……」


 和寿妃はまったく気おくれせず、リビングに続くドアをガチャリと開ける。


「いらっしゃい。和寿妃ちゃん」


 忍は息を飲んだ。電動ベッドに横たわるムジナの母の目は、忍にもわかるほど白く濁っている。程度はさだかではないが、目が見えていないことは明らかだった。

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