第7話 マメシバ
『お父さんとうまくいかないなら、ウチに来ればいいじゃない』
電話先の和寿妃は、何をそんなに悩むのかわからないという口ぶりでそうのたまった。お嬢様らしい物言いに、忍は苦笑する。
パンがないならお菓子を食べればいいじゃない、みたいな言い回しを現実に耳にすることがあるとは思わなかった。
「そんなことできるわけないだろ」
『どうして? 前はよく泊まりに来てたじゃない』
「それは小学生の頃の話だろうが」
『そうなの? ふうん……』
和寿妃は不思議そうだった。電話越しでも首をかしげているのが見えるようだ。
父の言うなりになってタクシーで帰る気も起らず、かと言って、こんな気分で白妙に会いに行ったら彼女の前で泣き出してしまいそうだった。
喫茶店にほど近い橋からぼんやりと川を眺めていたら、結構時間が経っていたらしい。授業を終えた和寿妃から電話がかかってきた。
『でも、体調に問題がないなら良かった。ごめんね、忍くんはあんまり行きたくなかったのに、わたしが無理につきあわせたから』
「別に……大したことじゃない」
『大したことじゃないの? そのせいで具合が悪くなって、取っ組み合いのケンカにまでなったのに』
「……親父とは、もともと反りが合わないんだよ。今に始まったことじゃないから」
川の多い町だ。
忍は大きな橋の欄干にもたれかかって、水面に浮かぶ泡を見下ろしている。
生活排水交じりの、そう綺麗でもない川だ。
波打つ面に、橋の影やら自分の影やらが光沢を帯びて混ざり合っている。
「なんか、許されたがってるんだと思うよ」
『許されたがってる。お父さんが?』
「うん……でも、許すってなんだろうな。おれは別に昔のことで親父に怒ってるわけじゃねーのに、なんでそれがわからないんだろう」
八年は長い。年々ひどくなっていくネグレクトと、母の偽装。
年に数回、単身赴任先から帰ってくる父は、いつもくたくたに疲れきっていた。
自分のおかれている状況がまだよくわかっていなかった子どもの頃は、行かないで、とそんな父を泣いて引き留めたこともある。
母は、父がいる時はまともだったからだ。
しかし父はいつも困ったように首を振って行ってしまう。
家族に愛情がないわけではなかっただろうが、仕事に意識が向いていることは明白だった。
泣くくらいなのだから、その時は悲しかったはずなのだが、今となってはそういうものだという気がするだけで、怒りも悲しみも沸かない。
そんなことを今さら気に病まれても、忍にはどうしようもなかった。
「だってもう、親父がなにを言ったところで、おれはこうなっちゃったんだから仕方ないのに、なんかその事実を認めようとしないんだよな」
『……忍くんは、お父さんに認めてほしいの?』
和寿妃の質問に、忍は瞬きをする。
足のちょうど真下へ鴨が六、七羽群れになって流れてきて、川の水をしきりに嘴で掬っている。小さくて色が違って見えるのは雛だろうか。
水をはじくふわふわの羽毛を見下ろして、忍は笑った。「諦めてほしいとは思う」
和寿妃は黙った。
その間の長さに忍は、らしくもない話をしたことを少し悔やんだ。
まだ小学生の頃、父が仕事で長く家を空ける時は、忍は大柴家に泊まらせてもらったりしていた。
その関係で大方の事情を知っているとはいえ、特にオチも答えもない話を延々と聞かせるのは、迷惑だったのかもしれない。
詫びて通話を切ろうかと思った時、和寿妃は言った。
『今、どこにいるの?』
「ん? 採火橋だけど」
『採火橋ね。今すぐ行くよ。動かないで待ってて』
「でもおまえ、今日は仕事があるって言ってなかったか。タヌキの……」
和寿妃の息巻き方に忍は面食らった。電話の向こうで走っている気配さえある。
『そんなさあ。お父さんなんて、いいじゃない別に。忍くんの話もちゃんと聞かないで頭ごなしに怒るなんてさ、そんなの心配してるって言わないよ。大人げなさすぎるし、忍くんの良いところを何もわかってない』
和寿妃は怒れば怒るほど口調が平坦になる。持ち前の正義感が忍の現状を許せなかったらしい。『わたしはきみを独りぼっちになんて絶対させない』と言った。
忍は和寿妃の断言に呆気にとられ、「そりゃ、どうも」と少し笑う。
いつものお嬢様らしい独占欲の現れなのだろうが、なんだかひどく照れくさかった。
「まあ……でも、ここまで来なくても、どっかで合流すればいいだろ」
忍はなんとなく歩き出した。橋の向こう岸でバス停を見かけた気がする。
「プリント届けに、不登校のタヌキの家に行くって言ってたよな」
『タヌキじゃなくて
「ああ、そう。どのへん?」
動物園にいないから、まだムジナを見たことがないのだ。
橋を渡り終えた忍はバス停の路線図を見上げた。
方角さえ合っていれば、あとは電話で位置を確認して落ち合えるだろう。
『えっ。一人で来られるの』
「おい、ガキじゃねーんだぞ」
『だって、コンタクトとかしてないんでしょ?」
「ああ……まあ……。なんとかする」
心配そうに尋ねる和寿妃に、忍は笑って言い返した。
自分はもう置いて行かれる一方の子供ではない。父が何を思おうが、行きたいところに自由に行けるのだ。その身軽さに、今は少しだけ安堵していた。
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