第6話 変な恰好
医師は聴診器の先を忍の胸に当てて、心音を確かめていたが、やがて耳からはずした。狭い診察室のドア近くに立っている忍の父に向かって「まあ、大丈夫そうですね」と言う。
わかりきっていたことだ。忍はため息をついて、スウェットの裾を直した。
「健康そのものです。疲れが出ただけでしょう」
やや飛び出した目玉と、静電気を帯びた白髪交じりの髪が、カニのように見える医師は、静かにそう結論づけた。
「しかし先生、昨夜は吐いて、倒れて、過呼吸を起こして……」
息子の症状を訥々と訴える父親が、そして高校生にもなってそんな醜態を晒した自分が、忍には耐えがたかった。
三時間に及ぶカラオケに付き合わされて、帰宅した途端に気持ち悪くなっただけだ。食え食えと勧められたアメリカンドッグを断れなかったのも良くなかった。
食べたことがなかったので、中に肉が入っているとは思わなかったのだ。
一緒に来た和寿妃は心配して、代わりに食べると言ったのだが、宇佐美と亀井の目、それに猿渡の気持ちを考えると、どうしても自分で食べないわけにはいかなかった。
そんな状態で、猿渡と和寿妃の間に座らされて、和寿妃の探偵じみた質問の仲介役までやらされたのだ。体調を崩さないほうがおかしい。
医師は電子カルテを入力しながら、「そうですねえ」と唸った。
「食中毒としても、今のところ症状は治まっていますのでねえ……。アレルギーの検査もしてみますか?」
「ぜひお願いします」
「やらなくていい……!」
患者本人を素通りして進められる問診に、いい加減耐えかねて忍は声を上げた。
昨夜、トイレを抱きかかえて嘔吐している時も、夜間救急に担ぎ込もうとする父に抵抗するのが大変だったのだ。
家でゆっくり休めば回復するものを、大げさに騒ぎ立てて、むしろ状況を悪化させている。
今朝も早くから、高校生にもなった息子を車で病院へ連れて行くと言って、職場に休みの連絡を入れていた。小学生じゃあるまいし、こんなことで親の仕事に穴を空けさせて、忍は情けないやら恥ずかしいやら、軽くパニックに陥っていた。
おまけに、ヘビ嫌いの父に診察の妨げになるからピアスを取れだのカラコンをするなだの口うるさく言われ、紫色の髪のほかは、ほぼ素のままで外に出されている。今も心細くて仕方がない。
「もういいので、ほんとに……」
忍の呻きに近い訴えに、医師はカニのような目をしばたかせた。
「まあお父さんもね、こうして心配なさってるわけですから。胃腸薬を出しますので、しばらくそれを飲んでみて、やっぱり調子が悪いってなったらまたご連絡ください」
親子関係を察したような口ぶりに、忍は赤面する。
対して父は不満げだった。仕事を休んだからには治ったと安心したかったのだろう。何か息子の体調不良に張り切っている感じがして、忍はとても嫌だった。
つまり忍の前で、殊更に父親らしい振る舞いを演じようとしているように感じたのだ。
無論、心配しているのはウソではないだろう。
だが、忍には父が、母からのネグレクト被害に気がつかなかった罪滅ぼしを、何か必死にアピールしている、そう思えてならない。
うまく言葉にはできないのだが、忍は息子として何か強いられている気がした。そう強いる父が嫌で、それに素直に応えられない自分も嫌だった。
会計を済ませ、薬を受け取ればもう昼時で、父は忍を手近な喫茶店に連れて行った。
最近は田舎でも珍しい、喫煙者ウェルカムの店だ。自分も吸う人間のくせに、父は席の灰皿を通路側に遠ざける。忍の前では吸わないと決めているらしい。そういうところも嫌だった。
いつまでも幼児みたいに扱われて、男として扱われていないような気がするのだ。
ただでさえ嫌だ嫌だと思っている忍に、父はこんなことを言った。
「これに懲りたら、夜遊びは控えろよ」
「…………は?」
「自分で自分の面倒も見られないくせに、勉強もろくすっぽせず女の子と遊んだり変な恰好ばっかりしているから、こういうことになるんだ。お父さんはそういうの感心しない」
忍は、怒りで体が震えた。
父親に対して、何が『お父さん』だ、と思う。
自分をそう定義づければ、忍を自分の所有物みたいに扱えるとでも思うのだろうか。
「大体、付き合う友達に問題があるんじゃないのか。親の許可も得ずに勝手に居酒屋でなんか働いたりして、だから悪い付き合いが増えるんだろう……もともと体が弱いのになんで夜の仕事なんかやる。親へのあてこすりのつもりか?」
「……いや、意味不明なんだけど」
腹の奥底からこみあげてくる怒りに、忍はもはや笑っている。
父の言うことが全て的外れだからだ。
カラオケに行ったのは、昨日はじめて連絡先を交換した学校のクラスメイトで、バイト先は全く関係なく、というか、行きたくて行ったわけではない、和寿妃を一人で送り出すのも気が咎め、猿渡のことも心配で、イエティが誰というのも気になっていたし、その判断を父から責められるいわれはまったくなく、いやそうじゃない、父はこれまで何度となく揉めてきた件についてまた蒸し返そうとしている。変な恰好って言った。
変な恰好って言った!
すうっと頭が冴えて、忍は的確に父を傷つけられる言葉を選んだ。
「なあ。誰のせいだと思ってんの?」
「……何が」
「あんたは、おれがこうなったのは誰のせいだと思ってんの?」
父がいつもいつも自分を責める時に使う言い回しだ。誰のせいだ俺のせいだと、いつもいつも自分を責めている風を装って忍に聞かせている言葉だ。
忍は普段からそれに耐えていた。
忍が白妙に恋をしたのは、誰のせいでもないからだ。母に無視され続けたことも、父
が気がつかなかったことも、単に人間嫌いの土壌になっただけで無関係だ。
忍は白妙に出会うべくして出会い、恋をして、憧れて、ひとつになりたいと願った。
それでも不意に、我に返るように来し方を呪うことはある。
忍はゆらりと席を立つ。喫茶店の、二人掛けのテーブルは狭い。
「ハナッからてめえのせいだろうがよ!」
父に向かってコップに入った氷水をぶっかけると「親に……向かって……」ぽたぽたと前髪から雫を垂らしながら父は忍の襟首を掴んだ。テーブルのふちに沿って引きずられ、体を卓上に押し付けられる。
「なんだその口の利き方はア!」
床に転がり落ちたコップとガラスの灰皿が大きな音を立てて割れた。
仕事柄インテリぶっているが、父は我慢が切れるとすぐに手が出る性格だ。忍は唾を飛ばして言い返した。
「誰が親だ誰が!! なんも知らねえくせに勝手なこと言いくさって!」
「子どもが生意気な口を利くな!」
「ふざっけんな!わけわかんねえ女とセックスしてわけわかんねえガキこさえただけのガキがオヤ気取ってよお!」
「こっの……」
「あァ……別にあんたのガキじゃねーのかもなア、オレは知らねえけどよ!」
上から押さえつける父の脛を、忍は思い切り蹴った。
たたらを踏むように離れた父が、ぽつりと言った。
声が震えている。「違う」と言った。
「おまえは、俺の息子だよ」
だったらなんだ。そんなことになんの意味があるんだよと、忍は思う。
向き合って肩で息をする父子に、白昼の店内は騒然としていた。
忍が横目にレジを見ると、エプロンを付けた中年の女性店員が、通報すべきかどうかと電話に手をかけたまま震えている。
お互いに寝不足だった。忍は体調が悪く、神経質になっていて、不安で、怖かった。だが、そんなことはなんの言い訳にもならない。
もうこんなところには一秒もいたくなかった。
すぐさま出入り口に向かおうとする忍を、父は「待て、忍!」と引き留めようとする。頭に血が上るのも冷めるのも早い。
その手を、忍は冷たく振り払った。
「なんだよ」
「どこに行くつもりだ」
「あんたには関係ないだろ!」
「……そうか、わかった。そうやって、いっつもおまえはお父さんと一緒にいたくないんだよな!」
傷ついたような口ぶりでまくしたてて、尻ポケットから札入れを出した父は、忍の胸に一万円札を押し付けた。
「そんなに嫌なら、これ持って、タクシーで、一人で家に帰りなさい」
「…………」
「返事は!」
「………………はい」
返事とともに強く胸を突き放され、一万円札はひらひらと床の破片の上に落ちる。
出どころはどうでも、金は金だ。忍は奥歯を噛みしめて金を拾い上げる。
見上げる父は、もう、騒ぎを起こした責任をとる男の顔になって、周囲へしきりに謝っている。店側はすでに契約している警備員を呼んだようで、外には車両が来ていた。
一人で歩道に出ると、爆発しそうに熱を持っていた体が、急激に冷えていくのがわかる。
忍は心に浮かんだとおりに「だっせえ……」と呟いた。
こんな時でさえ忍をちゃんと家に帰らせようとする父も、駄々っ子のように父に反抗する自分も、あまりにもださいと思う。はた迷惑な話だ。
忍はもう、どこにも行きたくないし、どこにも居たくなかった。
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