第3話 サディスティック・ラブ
放課後、職員室を一礼して出た和寿妃は、下校する生徒たちの流れに逆らうようにして教室へ向かう。
学校全体に授業が終わった解放感が漂っている。文化祭が近づいているせいもあるだろう。塗装前のベニヤ板を壁に立てかけているクラスもある。
2年2組の教室は、まだ掃除が終わっていなかった。
長箒へ杖のようにもたれかかって、男子数人が談笑している。
吹き込む風にカーテンが踊っていた。腰高窓だけでなく、天井に近い、押して開ける窓まで開いて換気をしているからだ。
教室の後ろに寄せられた自分の机の上で、和寿妃は荷物を整理する。
合わせてスマホも確認したが、忍からの返信はまだ来ていない。
文化祭準備の後から姿をくらませていた。
ベビーカステラの試作品を、教室に持って来た調理チームの中にもいなかったのだ。チーム長の川尾 春奈によると、トイレに行くと言って出て行ったのが最後らしい。
和寿妃は単に質問しただけだが、川尾は詰問されていると感じたようだ。
ふわふわのロングヘアを揺らしながら、なんとなく口を濁していた。
和寿妃はスマホから顔を上げて、はしゃいでいる男子たちが、廊下の掃除を終えた女子たちから注意されるのを眺めた。
文化祭準備をきっかけにクラスに馴染めたら、忍もあれくらい自然に同級生と会話できるようになるだろうか。先の長い話だ。
教室を後にした和寿妃は、階段を上る。
二年生の教室は二階、三年生の教室は三階、四階は音楽室があり東側の階段はそこで途絶えている。
漏れ聞こえてくる吹奏楽部の合奏に背を押されるように、和寿妃は西階段へと足を向けた。
「忍くん」
屋上へ続く、鎖状の南京錠を何重にもかけられたドアのそばに、忍はうずくまっていた。ひょろひょろした体を小さく折りたたんだ姿はまるで子供のヘビのようだ。
和寿妃は階段を登りきり、忍にかがんだ。
「大丈夫? 疲れちゃった?」
返事はない。
和寿妃は小さく息をついて、忍の隣りに腰を下ろした。
合奏している曲目は、文化祭の発表に向けてだろう、子供から大人まで知っているアニメのマーチングバージョンだ。
和寿妃ももちろん知ってはいるが、実際にリアルタイムで見たことはない。食事時にテレビをつけることを良しとしない家庭に生まれ育っていた。
「まじでもう人間とは一生口ききたくない」
忍はぽつりと言った。和寿妃は「そう……」とうなずいた。
「わたしもいないほうがいい?」
「別にそうは言ってないだろ」
「きみの嫌いな人間だけど」
「だから……おまえは、そういうんじゃないから」
「うーん?」
意味がよくわからない。
なんとなく、今はそっとしておいたほうがいい気がして、和寿妃は立ち上がる。その手を、はっしと忍は掴んだ。
「……和寿妃は……特別だから……」
うつむいている、ピアスだらけの耳が真っ赤だ。
久しぶりに名前を呼ばれた、そう意識した次の瞬間、忍の熱が手から流れ込んできたかのように和寿妃は固まった。
膝あたりから一気に血が駆け上がってきて、頬が熱くなる。
恥ずかしそうに、すっと退こうとする骨ばった手を和寿妃は思わず握り返した。
体中を混乱と興奮が駆け巡り、何か急にトイレに行きたくもなってきて、だがこの手を少しでも長く捕まえてもいたいと思う。
忍がゆっくりと顔を上げる。目が潤んでいるのはコンタクトレンズのせいだろうか。
「痛ぇよ」
「…………あ。うん」
和寿妃は、慌ててぱっと手を離した。痛みに強い忍が訴えるのだから、相当の力で握っていたということだ。手を見ると爪の間に血が付いていた。
「えっ」
和寿妃はうろたえた。爪を立てた忍の手の甲からかすかに血が滲んでいる。
はたいたり引っ張ったり蹴ったり、はたまた噛んだり、忍へのスキンシップがいささか過激な和寿妃だが、彼女なりに加減はしているつもりだ。
どれだけ必死に掴んでいたのか、自分でもわからなかった。
「うわ、ごめん、ごめんね。痛かった? 保健室……」
「いいから」
「でも、血が」
「うるせえな。いいって言ってんだろ」
「う、うん……」
強く促され、和寿妃はストンと床に腰を下ろした。忍の体内にあった血が、こうして自分の肌の内側に食い込んでいることが、彼女にはひどく不思議だった。
形よく並んでいる小さな貝のような爪を何度も手で確かめてしまう。
「……なに笑ってんだよ」
「え?」
和寿妃は目を丸くして、血のついた手で自分の口角を確かめた。わからない。
自分で自分の顔は見えなかった。見えるのは忍の顔だけだ。
模様入りの目と、低い鼻。ぱさぱさした紫色の髪。苦しげにはだけた胸襟。ピアスだらけの耳たぶ。乾いた唇が
忍は和寿妃の視線から逃れるように顔をそらして「別にいいけど」と付け加えた。
「それより、噂の出どころがわかった。クラスのホームページだ」
「……ああ、あの掲示板ってこと?」
「うん」
こういうことに関しては話の通りが良い。
忍は立てた膝に頬杖をついて、わかったことを和寿妃に報告した。
『大柴 和寿妃は、猿渡 崇志に片思いしている』その噂を猿渡に直接伝えたのは、調理チームの宇佐美と亀井だった。
情報の出どころ自体は亀井なのだが、『モテない猿渡に朗報だー!』とはしゃいで伝えたのは宇佐美らしい。
では亀井は誰からその話を聞いたのかと聞けば、2組の仲良しグループでそんな話題が出た気がすると言う。とにかく夏休み前の記憶なのであいまいだった。
その時点で、自分に追えるのはこれが限界だろうと忍は感じていた。
ノリのやたら軽いサッカー部男子三人組に、ヤカラ特有の絡み方をされている上に、調理チームの川尾をはじめとするクッキング部女子の面々からは「男子は口より手を動かしてもらおうか」とキレられているのだ。
一日を通して二言三言しか喋らない日もザラにある忍には荷が重すぎた。
ところが、そうやって真面目にベビーカステラを焼いているところへ、甘い匂いにつられた仲良しグループの蝶子と、その彼氏の
亀井の言う仲良しグループには女子も含まれているらしい。
忍の鼓膜には今も彼らの声がこびりついている。
亀井は歯の矯正器具を晒すようなニヤニヤ笑いを浮かべて「三輪クンが、オレの女とるな~ッつってさ、噂の出どころ調べてるらしんだよ」と言った。
蝶子は「なんそれ、ピュアすぎ。かーわいー!」と萌え袖で隠れた手を叩いて笑った。
川尾は「ちょっと、ほんっと、作業の邪魔すんのやめてくんない」と、フリル付きエプロンの肩を怒らせ、忍は、忍はもう、消えてしまいたかった。
客観的に見れば忍のしていることは、確かにそうなのだ。
子供じみた嫉妬に駆られて、文化祭準備に追われるチームの輪を乱している。
見た目のやばい、コミュ障。
いっそ誰か殴って気絶させてくれないだろうかと思い始めていた時、鳳が「ごめん、それ大元は俺だわ」と挙手した。
坊主頭も相まって、忍は彼に後光が射しているように見えた。
尻馬に乗った亀井と宇佐美がますますヒートアップしてはしゃぐ。
「テメーかよ! デマだったじゃねえかよ!」
「三輪クンは鼻血まで出したんだぞ。謝れ謝れ」
「三輪クン行け行け殴れ殴れ」
「だから、ごめんて……いや、ごめんね。こうなるとは思ってなかったから」
喚く二人を片手で払いながら、鳳は忍に軽く頭を下げた。
「や、でも、そもそもの出どころは俺じゃなくってさ……」
「責任逃れをするなーっ」
「殴れ! 殴れ!」
「違うから!……覚えてない? 情報の授業でクラスのホームページ作ったでしょ。掲示板とか、チャットとか」
「ああ、
「最近はチェック甘いよ。みんな飽きてるから過疎ってるし」
宿題の情報など、役に立つ情報も定期的に更新されるので、鳳はちょくちょくホームページを覗いては、クラスメイトと罪のない交流を楽しんでいたのだと言う。
その掲示板に書き込まれていたのが、和寿妃の片思い相手の話題だった。
「掲示板を見ればまだログは残ってると思うけど。大柴さんが猿渡に片思いって意外すぎて逆に信憑性があったから。どうなのかなあって、蝶子に聞いた記憶がある」
「どうもこうもなくてウケたから亀井に言ったわ」
「で俺が宇佐美に話して」
「はい! はい! 猿渡に伝えたのはオレでーす」
「…………」
どっと笑う四人組を前に、忍は途方に暮れた。
ネットリテラシーのかけらもないネタを拾ってきたのは鳳だが、伝言ゲームがここまで続いてしまうと、誰に責任を問えばいいのかわからない。
忍の思いを察したように、宇佐美は「まあ火のないところに煙は立たないと言うじゃないですか」と茶化した。
すかさず亀井も同調してうんうんとうなずく。
「そうそう。俺らは猿渡に純粋に幸せになってほしかっただけだから」
そして二人は声を揃えて猿渡を指さした。
「まあ、猿渡はフラれたけどなー!!」
「うるっせー!!」
ゲラゲラ笑われて、それまで沈黙を守っていた猿渡が地団太を踏む。
「 誰が勘違い野郎だ、死ね!」
「夏休みいっぱいの勘違い、本当にお疲れ様でした」
「一日三回送った怪文書を見せてくれよ、なあ、なあ」
恐ろしいことに、仲間内では完全にネタとして消化されているらしい。
忍には到底ついていけない高度なコミュニケーションだった。
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