第2話 サルだ。

 県立北山王高校は文化祭を来月に控え、午後からの授業は準備のために充てられるようになっていた。

 2年2組の文化祭実行委員は、人気の高い飲食のくじを見事に引き当て、クラスはベビーカステラ屋を開くことが決定している。


 内装・販売・調理の3チームに分かれたクラスで、忍は調理チームに入っていた。

 チームはその半数をクッキング部の女子が占めているが、ほか数名の男子とつるむ形で、猿渡崇志も、その中に含まれていた。


 忍は、まずは家庭科室に移動するチームの最後尾につき、前を歩く猿渡の姿をじっと見つめていた。


『大舞台で緊張する時は、観客を野菜と思え』という教えがある。

 要は見られていることを意識しないことが肝心で、忍は猿渡をサルだと思い込む必要があった。

 白妙に会うために、週に一度は動物園に足を運んでいるので、サルがどんな生き物なのかは知っている。あとは似ているところを探して、似ていないところを見ないようにするだけだ。


 馬鹿馬鹿しいようだが、忍はこうでもしなければ、本当にまともに人と会話ができない。まずは話しかけられないように振る舞い、それでも話さなければならない時は、相手を人間だと思わないようにする。

 相手が動物であれば、嫌われたり無視されても仕方ないと思えるからだ。

 いきなり攻撃されても、動物なら諦めがつく。こちらとしても悲しんだり怒ったり、余計な感情を持たずに済む。それが忍に作れる小さな平和だった。


 猿渡は耳が大きい。額がほとんど出るほど前髪が短くて、メタルフレームの眼鏡をかけている。どちらかといえば童顔で、顔のパーツが中心に寄っている。

 和寿妃を避けていると聞いていたが、前を歩く男子と肩をぶつけて笑いあう程度には精神的に回復しているようだ。


 サルに見える。サルだと思う。身長は忍と同じくらいだ。姿勢が悪い。手のひらの皮が分厚い。サッカー部だ。よく日焼けしているから、手の甲と手のひらで色が全然違っている。サルだ。


 家庭科室に横並びでは入れない。

 会話は途切れている。順番を待つように遅れたはずみに、忍は猿渡の肘を掴んだ。

 驚いたように振り向くに、忍は強張った笑みを浮かべた。


「話いいか?」

「……えっ」


 忍と違って友達がいる。家庭科室の中から、誰かが猿渡を呼んだ。

 ことさらに引き止めたいわけではない。


 忍がぱっと手を放すと、猿渡は困惑した表情を浮かべる。

 殴りかかっては来なかった。

 家庭科室に向かって「すまん、先にやってて」と声を張り上げ「は? サボりかー」と追いかけてくる声を「アホか」と片手を挙げてかわす。


 そのまま家庭科室から少し離れる。

 後をついていきながら、忍はもう吐きそうだった。

 もちろん自分のためではある。だが、なぜよく知りもしないサルの名誉を守るために、こんな緊張を強いられなければならないのか。

 おまけに、話はまだ始まってもいないのだ。これからこんなサルを煽らなければならないのかと思うと、もう死にたい。


「で、なに?」


 猿渡は階段を下りて、踊り場で振り向いた。

 忍はまだ階段の中ほどで、見下ろす形になる。感じ悪いかな、と一段降りてから、サルならそんなこと気にしないだろうと首を振った。


 あらためて見ると、顔に対して眼鏡が少し大きくて、少し面白い。


 忍は半笑いを浮かべたまま「和寿妃が」と言いかけた。


「あぁ!?」


 階段に反響する声が大きい。サルだからだ。

 たぶん名前が禁句だった。大柴、と苗字で呼べばよかったのかもしれない。

 サル相手にそんなこと考えても仕方ない。

 怒声の直後、急に降ってきた沈黙を、忍はなるべくその面白い眼鏡だけに焦点を合わせるようにして耐えた。


 手すりを、指先が白くなるほど強く握りしめている。


「和寿妃が、避けられてるって気にしてる」


 そう言いながら、偶然にも上をとれていて幸運だったと忍は思う。階段の下から上に向かって殴るにはサルはリーチが足りないからだ。

 暴力を振るわれることを前提にものごとを考えるのは忍の癖だった。

 人間を怖がるというのは、彼にとってそういうことだ。


「は? なに? どういうこと?」


 猿渡は短い髪をバリバリと掻いた。


「アンタは僕に、大柴さんと話をしろって言ってんの?」

「…………違うけど……」

「あのさあ! 心配しなくても別におたくらの邪魔しようとか別に思ってねえから。大柴さんもみんなにそう言ってたし」


 だから自分のいないところで和寿妃、あの恥さらしは一体なにを言ったんだよと、忍は頭を抱えたかった。二人のことはみんなに説明してあると言っていた。

 なんのことだ。どこまでだ。


「つーか別に大柴さんのこととかもうなんとも思っとらんし」

「…………」

「いやむしろ、あんな大勢集まってるところで告らされるとか有り得ないから。ほんとなんだったんだろうな、アレ、テンションやばすぎて」

「…………」

「なんか言えや、おい」


 猿渡が手すりを掴んで階段を上ってくる。忍はもはや蹴られるのを待っていた。

 来るとしたら金的のような気がする。自分だったら絶対にそうするからだ。

 問題は食らった後、どうやって会話を続けるかだった。

 誰が嘘つきなのかを聞き出さなければならない。さもなければ学級会は免れない。

 和寿妃はやると決めたら、絶対にやるやつだ。


 だが予想はことごとく外れた。

 パンと肩に軽く手の甲を当てられて、忍は膝から砕けそうになる。


「まあ、だから、すまんかったな」

「は……?」

「『は』じゃねーわ。だから……できあがってるとこ変に横取りしようとして……そうですね、馬に蹴られるようなもんですよね、ハイハイ思い込みで突っ走ってすみませんでした」


 雑に謝罪してこの場を済ませようとする猿渡に、忍は呆気にとられる。

 そのまま忍を通り過ぎ、階段の上からハッと鼻で笑った。


「でも言わせてもらうけど、大柴さんの男のシュミはまじで疑うわ」

「ああ……」

「いや納得してないで言い返せや」

「…………いや……」

「さっきからモゴモゴうるせえなあ! なんだおまえ。そのナリでコミュ障か?」


 ぱんぱんとテンポよくつっこまれて、忍の体力ゲージはもう底を突きかけている。

 自分と相性がいい人間などいないことはわかっているが、それにしても相性の悪さを痛感せずにはいられない。

 猿渡は気が短く、人の話を聞かずに自分の言いたいことばかり言う。


「待って、あの」


 そのまま去って行きそうだったので、忍は慌てて階段を上る。あのサルのような手を掴むと、びっくりしたように振り向いた。

 忍は「誰から聞いた?」と尋ねる。


 猿渡は忍をじろじろと見て「対人能力が壊滅的なのは今知った」と言う。

 からかうような口ぶりだった。


「そうじゃなくて」と、忍は声を大にして言い返した。「和寿妃がおまえのこと好きって、誰から聞いたんだよ」

「なんだ? 二人でラブラブなところに、急に僕がしゃしゃり出てきたから自信なくしてんのか?」

「そうじゃ、なくて」

「別に誰とかじゃねえよ。確か、夏休み前に……」言いかけて、猿渡は思いついたように忍を見返した。「今ちょうどメンツ揃ってるな。戻って話聞けば?」

「は?」

「サッカー部のやつら」


 調理チームの男子の面々を思い出して、嘘だろ、と忍は倒れそうになった。

 猿渡と一対一で会話するだけでこんなにしんどい思いをしているのに、こんなのをあと二人も相手にしなければならないらしい。

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