3:ホントにこのままでいいですか 編

第1話 忍と白妙

 白妙は、爬虫類館の片隅にいる。

 幅と高さ、共に2メートルほどの透明な水槽の中だ。白い玉砂利を敷き詰めた床には、ごつごつとした登り木が斜めに設置されている。

 奥には草地としてリュウノヒゲが植わっており、白妙はその柔らかな茂みに身を隠すように身を横たえていた。


 つきたての餅のように白く、ウロコにはぷりぷりとした透明感がある。見ているだけで豊かな重みを感じる、おっとりとした挙動だ。


 忍が指先をそっと水槽のふちに触れさせると、厳かに身を起こす。

 ついと伸びあがるようにして、ガラス越しに、忍の人差し指へ口を付けた。

 どきんと心臓が跳ねる。

 見上げてくる熟れた実のように赤い瞳に、忍は意識を持っていかれそうになる。声が漏れてしまいそうで、左手で自分の口を押さえていた。


 好き。それ以外の感情を自分の中に見つけられない。

 白妙以上に美しくて清らかで愛おしいものを彼は知らなかった。

 自分と彼女を隔てる厚さ4ミリの壁が、今の忍にはありがたい。

 それは白妙を忍から守る砦だ。


 ただ見つめあうだけでこんなに優しい気持ちになるのに、同時にめちゃくちゃにしたいと思う。されたいとも思う。

 規則正しく光沢を放つウロコがぼろぼろになるほど爪を立てて、舐めて、噛んで、咬まれて、ギュッと巻き付いて、息絶えるまで首を絞めてほしい。

 丸呑みにしてお腹の中に入れてほしい。体の中に受け入れられたいし、異物として徹底的に拒まれたい。胃で溶けて搾り取られて排泄されたい。


 たとえこの世の誰にも理解されないとしても、この気持ちを恋じゃないなんて絶対に言わせない。忍ははじめて会った時からずっと白妙を好きだ。

 ガラスに反射する制服姿の自分を、本当に気持ち悪いと忍は思った。


 髪をまた染め直した。馬鹿みたいな紫色だ。

 穴だらけの体をピアスで埋めて、悪趣味なコンタクトレンズを付けて、実在しないヘビの物まねをしている。

 高校生にもなって、お気に入りのぬいぐるみを持ち歩いて安心する子供みたいに。


 ガラスに向かって動かす指を、白妙もゆるやかに追う。

 それがまるで、自分のことを慕ってくれているみたいに思えて、気のせいでも忍は嬉しい。触りたいなあと思う。死にたいなあと思う。

 それはカードの裏表のように同じことだった。


 愛らしく首をかしげる白妙から、忍はやっとのことで指を離した。

 白妙はしゅるりと体をほどいて、優美なしぐさで寝床へ去っていく。

 その後ろ姿に忍は脱力する。もうこんなことはやめなければならないと思う。


 ヘビ相手にどうこうなりたいなんて、健全ではないに決まっているからだ。

 自分も傷つけるし、白妙がかわいそうだ。和寿妃に申し訳ない。

 ただでさえ今も苦しめている父が、どんなに嘆くことか。


 脱皮するみたいに普通になれたらいいのに、きっとそれはできないことではないのに、社会的に不都合な自分を手放すことなんて、みんな息をするようにしているのに、もはや内臓の一部のようになった苦しみに、酔うようにずっとしがみついている。


 もうやめようと忍は思う。

 会いに来たってなんにもならない。自分が苦しくなるだけだ。もう来ない。


 ――前に来た時も、そう思った。


「忍くんっ」


 昼休み、教室の机に突っ伏していた忍に声をかけてきたのは和寿妃だった。

 悲しい記憶に浸っていた忍は、やかましい幼馴染に「うるせえな」と笑う。


「ちょっと頼まれてほしいんだけど」

「……なんだよ」


 周囲で弁当を広げるクラスメイトが、聞き耳を立てているのがわかった。

 忍は頭をひとつ掻くと、場所を変えようと立ち上がる。

 廊下に出ると、和寿妃はぱたぱたと小股でついてきた。


 10月に入り、窓の外はすっかり秋の空だ。泡立てすぎて分離した生クリームのような雲が空いっぱいにぶち撒けられている。


 忍は長袖のシャツを腕まくりした両手で窓を開けつつ「それで、なんだって」と尋ねた。和寿妃は吹き込んできた風にショートボブを煽られながら言った。


「嘘つきを探すのを手伝ってほしいんだよ」

「嘘つきを探すのを手伝ってほしい?」


 なんの話だ、とオウム返しにすると「猿渡くんのこと」と返ってくる。

 サル。嘘つき。忍の脳裏に先月の記憶がひらめいた。


 夏休み中、和寿妃は猿渡の熱烈なラインに耐えかねて、忍に告白するという暴挙に出たのだ。だが、猿渡はそもそも誰かから『和寿妃が自分に惚れている』という話を聞いたからモーションをかけたらしい。


「いや、知るかよ」


 思い出すだけでうんざりして、忍は一蹴した。


「どうせおまえがどっかで適当なこと言ったのをだれかが本気にしたんだろ」

「わたしは猿渡くんのことを好きなんて、思ったことも言ったこともないよ」

「だから、俺が知るわけないだろ。噂ってそういうもんなんだから」

「だってこれって名誉棄損だよ。嘘告白なんてただのイジメじゃない」

「いや、あれは嘘告白とは言わない……」


 噂の出どころとはともかく教室での態度を見る限り、猿渡は和寿妃を本気で好いていたようだ。

 忍にかまわず、和寿妃は細い体の前で腕組みして、落ち込んだように続けた。


「それでわたし、猿渡くんにちゃんと言おうと思ったのね」

「は?」

「わたしは本当にきみのこと好きでもなんでもないよって。誰からそんなウソを吹き込まれたの?って」


 あまりにも残酷すぎる発言に、忍は衝撃を受ける。

 人間嫌いの忍にもわかる。勘違いから始まったにしても、片思いしていた相手から直接そんな心無いことを言われたら絶対に傷つく。

 なんなら立ち直れなくてしばらく学校に来られなくなるまである。


「おまえは、それを……サルに言ったのか……?」

「それが……なんかわたし、ずっと避けられてるみたいで……全然、お話させてもらえないんだよ……」

「ああ……そりゃ、そうだろうな」

「やっぱりわたし、嫌われちゃったのかなあ……」


 忍は軽く目を閉じて、和寿妃が本気で落ち込んでいることを理解しようとした。

 別に天然ぶって人をおちょくろうとしているわけではないのだ。

 それは知っているのだが、人の心の機微がわからないにもほどがある。クラスの女子とまともな付き合いができないわけだった。

 中学時代、これに付き合っていた狐塚真理は本当に偉いと忍はつくづく思う。


「……うん」忍は自分で自分を納得させて「それでおれに代わりに聞いて来いってか?」と尋ねた。


「そうそう」


 こくこくと頷く和寿妃に、忍はとうとう「バカかおまえは」と言った。

 和寿妃のことを横取りしたことになっている忍が『勘違い乙』などと言おうものならそれは完全に煽りだ。猿渡がどんなに温厚な人間だったとしても次こそ鼻血では済まない。


「もうほっといてやれよ。変なラインは来なくなって、おまえはもう別に迷惑してないだろ」

「えー……」


 和寿妃はあからさまにがっかりしたように肩を落とした。

 ため息をついて「まあ、そうか」とうなずく。


「忍くんが嫌ならしょうがないよね……」

「そうだぞ。諦めろ」

「うん。ちょっと気が進まないけど学級会で取り上げることにするよ」

「あ!?」


 学級会。その単語に含まれる嫌すぎる響きに、忍は肝を潰した。

 2年2組の学級委員を務める大柴 和寿妃は、覚悟を決めたようにきりっと眉を吊り上げた。


「職権乱用みたいで嫌だったんだけど、もうこうなったら仕方ないよね。ありがとう、忍くん。小鹿先生に相談して、さっそく今日の帰りに時間をもらうことにするよ」

「おまえ、それは。それはダメだろ。実質ただの吊るし上げじゃねえか」

「そんなことないよ。クラスみんなのためになるもの」

「公衆の面前で人に恥かかせることのなにがみんなのためなんだよ」

「恥? 人を好きになって告白しようとしたことの、何が恥なの?」

「いや、だから……」


 両手を広げながら、忍はうまく言葉を組み立てることができない。

『人を好きになって告白しようとしたことの何が恥なの?』

 和寿妃の言葉に一瞬、胸を打たれかけて、いやそもそも告白するように仕向けたのはこいつだと思い直す。さらに言えば、その告白を邪魔したのは忍であって、そのまま付き合っていれば和寿妃はうまいことを突き止めていたのだろう。


「あっ、忍くんは何も心配しなくて大丈夫だよ」


 青くなったり赤くなったりしている忍に、和寿妃は狂犬じみた笑みで、とどめを刺す。


「忍くんは早退しちゃったから居なかったけど、あの日のうちに、きみとわたしのことはちゃんとみんなに説明しておいたから。今日の学級会でもいつも通り、堂々としていていいからね!」

「…………わかった」


 忍は社会的に辱められて死ぬより、猿渡に殴られて死ぬ方を選んだ。


「俺がちゃんと猿渡から一対一で話を聞いてくるから、学級会だけはやめてくれ……」

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