第5話 不純異性交遊

 DVDは45分で終わった。

 和寿妃はリモコンでトップメニューから特典映像の画面に飛んだが、それが他のドキュメンタリーシリーズの宣伝とわかると、途中で消してしまった。

 あくまでヘビが目当てということだろう。


 和寿妃は納得したように「よくわかった」と言った。


「……何が?」

「わたしはヘビじゃないことがよくわかった」

「だろうな。見る前に気がつかなかったか?」


 軽口のように答えてしまってから、よく考えると深刻な発言だったような気がして、忍は黙った。

 和寿妃は案外なにも感じていない様子で「いや、やっぱりヘビは人間とは全然違うね」と足を伸ばす。そのまま忍の前からどくのかと思ったが、どかない。


「手と足が退化しているのは知ってたけど、目蓋がないとは知らなかったよ」

「……うん」


 ヘビの眼球は透明なウロコで覆われており、脱皮の際には剥がれ落ちる。視力は弱く、両目の位置の関係でものを立体的に見ることも難しい。

 代わりに嗅覚が発達しており、鼻の他に舌先で匂いの粒子を捕まえて上顎で感知するのだ。


 一体どんな感じなんだろうと忍などはゾクゾクする仕組みだが、和寿妃は頬に手をついて考え込んでしまった。

 見ていると、ぐるんと全身で振り向き、探るように忍に問いかけた。


「ねえ、それで忍くんはさ、ヘビにどんなことをしたいの?」

「…………はっ?」

「知れば知るほど、きみとヘビがエッチなことするのって物理的に厳しい気がするんだけど」

「おっおまえがそれを知る必要は別にないだろ!」

「あるよ。わたしはヘビの代わりなんだから」


 一点の曇りもない清らかな瞳で性的嗜好を問われて、忍は怒るに怒れなかった。

 それどころか弱弱しい声しか出てこない。


「お……おまえが、ヘビの代わりになるかよ……」

「何それ。きみは、わたしにできないことがあると思うの?」

「おまえ、それ……その言い方は……傲慢だぞ……」

「べつに傲慢じゃないよ。ただの事実だから」


 自信のリソースが違いすぎる。

 忍が赤面しながら一つ返すところを、和寿妃は無限の自信でごり押ししてくる。


 しまいには忍の両肩に食い込むような力で両手を置いて「わたしは、きみのためならなんでもできるもの。だから、ヘビの代わりもできるんだよ」と言った。


 物体は高いところから低いところへ落ちる、とか。

 火をつければ燃える、とか。

 そういう当たり前のことを説明するような口ぶりで。


 ニコニコしていれば陽だまりのような柔らかい印象を与える目が、笑いが消えると一気にけだもののような威圧感を与える。

 壁に向かって肩を押さえつけられて、忍は目を逸らすだけで精一杯だった。


「忍くん」

「なんだよ……離せって……」

「教えてよ。きみはヘビとどんなことがしたいの?」

「おまえ、ほんといい加減に」

「違うか。ヘビにどんなことをしたいの?」

「だから……」

?」


 忍が赤面して黙る。同時に、和寿妃も黙る。

 その瞬間、忍は搦め手にかかった気がした。

 自分は何も答えていないのに、その沈黙ですべてを暴かれてしまう。

 冷房が効いているというのに、汗が出てくる。忍は日差しを浴びた雪だるまよろしくこのまま溶けてしまいたかった。


「ほら、言ってよ。私はなんでもするから」


 和寿妃は覆いかぶさるように、忍の耳元に唇を寄せる。

 汗をかいているのはお互い様なのだろう。首筋から藺草の香りがぷんと香りたち、忍の鼻腔を刺激する。体の内側に火種を放り込まれた気がした。


 エアコンと、通電したDVDプレイヤーの、カタカタと鳴る音に紛れてうるさく聞こえているのは、本当に自分が息をする音なのだろうか。


 ヘビ。


 忍はまた性懲りもなく変な想像をしている。

 鎌首をもたげるヘビ。大きく口蓋を開くヘビ。ぐちゅぐちゅと蠢いている真っ赤な口。縫い針のように太く鋭い、牙。


 言うな、と忍は自分に言い聞かせる。言うな、絶対に言うなと繰り返す。

 そんなおかしなことを言ったら、いくらなんでもひかれる。

 頭がおかしいと思われて、嫌われて、この世から早くいなくなれと呪われてしまう。

 いや、呪ってくれるならまだいい。


 和寿妃から死ぬまで無視されるようなことがあったら、お母さんがそうしたみたいに、ここにいるのに存在していないものみたいに扱われたら。

 もう絶対にもたない。二度目には耐えられない。


 だが、忍がどんなにそうやって言い聞かせても、熱を持った頭の奥はジンと甘く溶け始めている。和寿妃の肉体が、体温が、香りが、現実にいま触れていた。

 ヘビじゃない。ヘビじゃ絶対にないのに。

 自分には白妙がいるのに。一番好きなのは白妙なのに。

 なのに。なのに。

 だから。

 淫夢の内容が脳裏に次々とフラッシュバックして、忍は気がおかしくなりそうだった。口から出る声が、まるで自分の声じゃないみたいだ。


「か……っ」


 言うな。言うな。言うな。言うな。言うな。言うな。言うな。


「……咬んで……欲し……っ」


 終わった。


 自分で自分の口にした言葉に、サァーッと蒼褪める忍を、和寿妃はじっと見ていたが、「わかった」とうなずくと、口を大きく開けて、忍の耳を丸ごとがぶりと口に含んだ。


「!?!?!?」


 忍は脳天に稲妻が落ちた気がした。

 和寿妃はかまわず、そのままモグチュモグチュと磨り潰すように咀嚼しはじめる。

 歯にピアスが当たってカチャカチャと鳴る音がしているが、一向に気にする様子がない。


 声にならない声を上げて忍は体勢を崩す。

 和寿妃はやめなかった。

 そのまま壁に沿ってずるずるとベッドに倒れこんでも、激しい痛みとかすかな快感に死ぬほど悶え苦しんでいても、むしろ全身で彼を押さえつけるように咥えこんだまま口を離さない。


 忍は耳が取れるかと思った。ヘビと人間とでは口の形も大きさもまるで違う。

 正面からのしかかられると、体の輪郭も明確に伝わる。

 ガキだガキだと思っていた和寿妃の、確実に成長している体つきを急速に意識して、忍の全身は総毛立った。


 べ、と和寿妃が気まぐれのように忍の耳を吐き出す。

 息も絶え絶えの忍に、どこか誇らしげに「どう?」と言った。


「和寿妃は、ちゃんとできたでしょう」


 唾液に濡れた唇が満足げな弧を描いている。

 投げたボールをキャッチしてきた犬みたいだ。少なくともヘビではない。


「う……」

「大丈夫? やめてって言わないから、ちょっとやりすぎちゃったかな。でもこれで合ってたでしょ? ねえ」

「…………」

「ねえねえ、忍くん、ねえってば。どうだった? もっとする?」

「う、うるせえ……」


 顔を覗き込んでくる和寿妃の額を、忍は片手で押さえた。犬そっくりで、なんとなく髪を撫でるように手を動かすと、ますます嬉しそうにする。


 忍は浅くため息をついた。


 そのまま下半身を隠すようにダウンケットを引っ張り上げて「おまえもう帰れよ」と言った。壁に向かって寝返りを打つと、和寿妃が「えー!」と声を上げる。


「なんで? やっぱり痛かったの? 大丈夫?」

「……別に……。疲れただけ……」

「体力なさすぎだよ」

「ほんとうるっせえな、それが休みの日に押しかけてきたヤツの態度なのか?」

「えー……もー……。まあ、いいか」


 つん、と赤くなった耳たぶを指でなぞられて、忍は背筋を震わせる。


「また今度、ちゃんと話そうね」

「何を……」

「何って! わたしは、忍くんと話したいことがたくさんあるよ。きみのしてほしいこととか、してほしくないこととか、学校のこととか。いろいろ」

「…………」


 犬にしたって和寿妃は変だ、と忍は思った。

 忍の恥さらしな要求を叶えることに全く躊躇しない。

 でもそんな要求をする自分のほうがよっぽど頭がおかしい。

 嫌われなかったことに、泣きそうなくらいホッとしている忍のほうが、どうかしている。


「……おい」


 部屋を出ていこうとする和寿妃を、忍は寝返りを打って呼び止めた。

 まだプロジェクターはつけっぱなしで、その青い画面の中央で、和寿妃は眩しそうに振り返る。


 忍は片手を挙げて「またな」と言った。

 和寿妃はきょとんと目を丸くしたが、すぐに笑って「うん!」とうなずいた。


「また明日、学校でね。忍くん」

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