第4話 人間椅子

 和寿妃の前から離れても、全身が火照るような恥ずかしさは抜けきらず、忍はその日、自転車を立ち漕ぎして帰った。

 帰宅してみると、和寿妃がマジックで描いたウロコは、汗でほとんど流れていた。なんとなく惜しいような気がして、またそうやって惜しむことにまた羞恥を掻き立てられもして、忍は昼日中の明るい洗面所の鏡の前から、しばらく動けなかった。


 痕などとうに消えているのに、サインペンの先に肌をなぞられた感触は、それから数日経っても消えず、今も折に触れて蘇ってくることさえある。

 そうやって変なことばかり考えているから、おかしな夢も見るのだ。和寿妃は何も気にしていないというのに。


 本当に、忍のベッドに平気で座るくらい何も気にしていない。

 忍はそんな彼女を横目に、倉庫から出したプロジェクターをキャスターでごろごろと運んだ。


「えーっ! すごい、忍くん、こんなの持ってるんだ」

「別に……前に親父が仕事で使ってたのをもらっただけだ」


 和寿妃を驚かせるのは、なかなか悪い気はしない。いつもこちらが驚かされてばかりいるからだろうか。

 ドアから向かって左の壁がちょうど白くて何も置いていないので、いつもスクリーン代わりにしている。

 あとはシャッターを下ろして、カーテンを閉めればミニシアターの完成だ。


「本格的だねえ! すごい!」

「ふん……まあな」


 調子に乗って先に部屋を暗くしてしまったので、接続したDVDデッキはスマホのライトで照らしながら操作することになる。

 電源を入れると白い壁一面に青い初期画面が映し出された。「できたぞ」と顔を上げた忍は目をシロクロさせた。

 ベッドに座った和寿妃は、なぜか当然のように忍の枕を膝に抱いている。


「な……何をやってんだよ」

「なにって?」


 このお嬢様は人の枕をソファのクッションのようなものと思っているらしい。

 無言で取り上げると「肘を置くと安定するのに」と文句を言う。

 ベッドのスプリングが利いていて座面が落ち着かないのが気に入らないようだ。

 忍はやれやれと脇にある勉強机の椅子を顎で指した。


「椅子に座って見ればいいだろ」

「やだよ。ちゃんと正面から見たいもの」

「言いたい放題言いやがって……じゃあどうするんだよ」

「うーん。じゃあ忍くんが奥に行ってよ」


 ぽんぽん出される和寿妃の指示に従い続けた結果、まず忍はベッド中央の壁際に座らされた。その体育座りの膝を開いた間に和寿妃が収まる。

 できあがったのは忍が背後から和寿妃を抱く形だ。忍はキレた。


「絶対におかしいだろ!」

「うるさいなあ。耳元で怒鳴らないでよ」

「オレはオマエの背もたれじゃねえ……!」

「もちろんだよ。ほら、再生するからね」


 ちゃっかりリモコンを手にした和寿妃が再生ボタンを押す。

 DVDのメニュー画面にすぐさま飛ぶので、そのまま設定を操作しはじめる。


「音とかこのままでいいの?」

「どうせ、字幕版しか入ってないし……」


 和寿妃の頭が顎のすぐ下に来ている。

 座高が極端に低いのか、思ったよりも体格差があったということなのか、ひどく小さく感じた。なんでもいいが腰に尻を押し付けてくるのをやめてほしいと忍は思う。


「忍くん、おっきいねー」

「は!?」

「いや、画面が大きいって言っただけじゃん。なんで怒るの?」

「おッ……怒っては……ねえよ……」


 本編が始まっても、忍は全く落ち着かなかった。

 人と一緒に、それもこんな体勢で見たことなどないのだから当たり前だ。


 薄暗い密室で、和寿妃の髪からは和寿妃の匂いがした。忍にはそうとしか思いようがないのだが、なんとなく、干し草の香りに近いような気がする。

 おそらく藺草いぐさの匂いなのだろうと彼は思う。古い日本家屋に住んでいることは知っていた。


 というかこんなに香るということは、自分の体臭もかなりしているんじゃないかと、忍は急に心配になる。そもそも彼の家で、彼の部屋で、彼のベッドの上だ。

 シャワーで寝汗は流したとはいえ、部屋はそのままだった。

 和寿妃が嗅覚まで犬並みとは思わないが、臭いと思われていたら困る。


 忍は実際、過去に不衛生な身なりを長く続けていたことがあるので知っているのだが、度を超した悪臭というのは、自分では意識しないものだ。

 忍は自分の思いつきに自分でぞっとして、だが、和寿妃の細い肩を見下ろして、いやそれはない、と思い直した。

 本当に耐えられないほど臭かったら、和寿妃は正直にそう言うに決まっているからだ。


 想像して思わず含み笑いする忍に、和寿妃は「なあに? くすぐったいよ」と、顔を上げた。息が耳にかかったようだ。


 距離が近い。忍は「なんでもねえよ」と言って、彼女に無理やり前を向かせた。


 映像は、海外の研究者がヘビに個体識別タグを付けたところだ。

 保護区域で観察を続けるために必要な作業で、これはヘビの腹を浅く切って取り付けられる。術後、人間の手から解放されたヘビはシュルシュルと分厚いリボンが這うような音を立てて湿地帯へ去って行った。


「あれは痛くないのかなあ」

「痛いと思う」

「人間だと麻酔くらいするよね」

「うん……」


 和寿妃は忍の片膝に完全によりかかっている。忍が身じろぎすると、無言で膝を肘でロックした。ソファが動くなということらしい。

 襟の広いシャツを着た和寿妃の胸元は、忍の視点からは見えそうだった。


 こういう時、まともな男ならどうするのだろうと忍は思う。

 指摘するとか。力で組み伏せるとか。怒って追い出すとか。よくわからない。


 和寿妃が後ろを振り向きもせずに、忍の顎をぺとぺとと触った。


「……なんだよ」

「このヘビは顎の下が敏感なんだって」

「だからなんなんだよ」

「リラックスできるかと思って」

「……あのなあ、おまえ、おれのことすっごいガキだと思ってるだろ」

「思ってない」


 和寿妃は手を休めずに「思ってないよ」と強調した。

 そんなことを、どういうつもりで言っているのかと、忍は途方に暮れる。せめて顔が見たかった。だが、顔を見るということは、覚悟を決めるということでもあった。

 忍はなにか、決断を迫られているような気がした。

 唐突な来訪も、HなDVDとかいうのも、過度なスキンシップも、こうなってみると何か深い意味を孕んでいるような気がしてくる。


 忍はただ、反射する光を浴びる和寿妃の美しい頬の輪郭を見つめることしかできなかった。

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