第3話 鱗

 不純異性交遊をしよう、と言ったあの朝。

 忍は教室に戻るのを嫌がった。

 その鼻面を唾液でぐちゃぐちゃにした和寿妃は、すっきりしたどころか顔の色ツヤまで良くなって「普通にわたしと一緒に戻ればいいじゃん」などとのたまっていたが、忍にしてみれば恥の上塗りである。


「嫌だ。おれはもう今日は早退する」


 頑なに拒否する忍に、和寿妃は不可解そうに言った。


「別にみんな、仲直りしたんだなー、よかったなーって思うだけだよ」

「うん、そのみんなは、絶対におれの知ってるみんなじゃないな……」

「え? わたしは二年二組のクラスメイトみんなのことを言ってるんだけど」

「奇遇だな。おれもだよ」

「どういう意味?」


 見え方が違いすぎる。忍はため息を一つつくと「またケンカふっかけられたら面倒だから、帰るって言ってんだ」と伝えた。


「大丈夫だよ。忍くんのことはわたしが絶対に守るから」

「おまえは頼むからそれが火に油を注ぐことを自覚してくれ」


 なぜか自信ありげに胸を叩く和寿妃に、忍は首を振るばかりだった。傷心の猿渡から余計な嫉妬を受けるのは忍の本意ではない。


 というか、すでに殴られて鼻血まで出してしまった上、コンタクトレンズも外れている。今日はこれ以上、人間の相手をしたくないというのが忍の本音だった。


 コスプレじみたヘビの仮装は、彼にとっては単なる趣味以上の意味がある。

 要は精神的な自衛なのだ。自己暗示とも言う。

 自分が生身の人間であると意識すると、彼は立っていられなくなるほどつらくなる。正直なところ、今こうやって和寿妃と目を合わせて喋るのもギリギリというレベルだった。

 大好きなヘビのふりでもしていなければ、とてもやりきれるものではない。

 和寿妃は「ああ」と気がついたように言った。


「カラコンなしで外にいると恥ずかしい?」

「……別に、そんなんじゃない。面倒くせえし疲れただけだよ」


 じっと見上げてくる和寿妃から、忍は咄嗟に顔を逸らした。

 彼は自分の顔が好きではない。目も耳も口も鼻も母の股から出てきたと思うと死にたくなる。和寿妃の視線を意識するとなおさらだった。

 その聡明な目で、人よりも大きく劣っていることを、見透かされるような気がするのだ。こうやってしげしげと観察されると、自分に何か恥ずかしいところがあるんじゃないかと不安になる。

 たとえ考えすぎだとしても、裸の王様の逆版みたいなことになっていたらと思うと、忍の脳は爆発しそうだった。

 言うなれば自分で自分を視姦しているようなものだ。


「おい……なに、ガンつけてんだよ……」


 虚勢を張って威嚇する忍に、和寿妃は黒目がちな大きな瞳をきょとんと瞬いた。


「えっ? 忍くんはお目目がカワイイのになあと思ってたよ」

「おまえマジでぶっとばすぞ!」

「なんで怒るの? ていうか帰るなら荷物取って来てあげようか?」

「……うん」


 下駄箱では十分ほど待った。忍のリュックを取って戻ってきた和寿妃は、なぜか右手にサインペンまで持っていた。


「先生には調子悪いから早退するって伝えておいたよ。嘘じゃないでしょ?」

「……おう」

「あと、これ」


 リュックを受け取ろうと屈んだ忍の首筋に腕が回される。後頭部を押さえられ、急に顔を近づけられ、忍は冷や汗をかく。キスされるかと思った。


「動かないでね」


 和寿妃は忍の目尻から頬にかけてサインペンでなにやら描き込んでいる。

 インクの臭いとむず痒さにたまらず身じろごうとすると「動かない。目も閉じない」と続けざまに指示が飛んだ。


 動かないのはともかく、目を閉じないということは、真剣な表情でペンを動かす和寿妃を息がかかるほど近くで視界に入れ続けるということだ。

 拘束はかなり長く続いた気がしたが、瞬きせずにいられたのだから、実際には一瞬だったのだろう。


「はい、お疲れさま」


 きゅっとサインペンにフタをした和寿妃の足元に、忍はため息とともに崩れ落ちた。


「なんっなんなんだよっおまえマジで……」

「ちょっとヘビのウロコっぽく描いただけだよ。ただの気休めだけど」

「は……」

「何も無いよりマシでしょ。油性でも汗かくと落ちやすいから気を付けてね」


 予想外だった。忍は、筆先の感触があった左頬に指を触れさせる。サインペンで描いただけだ。感触など当然ないが、和寿妃の絵がうまいことは知っている。

 自分の顔でも、見たいと思った。


 呆けている忍の親指を、和寿妃はギュッと握った。


「ねえ、早退するのはいいけど、学校にはまた来るよね?」

「……おれが不登校になったら困るって?」

「困るに決まってるよ! 忍くんはわたしの特別なんだよ! きみがいなかったら学校なんて意味ないし、それにわたしは」

「来るよ、来る、わかったから黙れ」


 百メートル以内には響きそうなよく通る声でまくしたてられて、忍は慌てて和寿妃を黙らせた。突き放せば額面通り受け取られてしまうのはわかっている。

 忍は言葉に迷い、後ろ頭をがりがりとかいた。


「いちおう卒業はしたいし、普通に来るだろ……余計な心配してんじゃねえよ……」


 こうじゃない、こんなことを言いたいんじゃない、と、忍は口を動かしながら、内心で頭を抱えていた。

 もたもたとリュックを背負い、やっとのことで「あと」と付け加える。


「あと……あ、ありがとう。顔の。助かった。普通に」


 まっすぐ人に感謝を伝えるのは、本当に久しぶりだった。

 今度は別の恥ずかしさで和寿妃の顔をまともに見られない。

 忍は彼女が口を開くより先にその場を立ち去った。

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