2:いやヘビの身代わりって何 編

第1話 いぬみみのラミア

 ベッドの中で、まだ起きるとも再び眠りに落ちるともつかない時、指先にヘビの肌ざわりを感じることがある。

 要するに一種の明晰夢なのだが、たしかな肉感とつぶだったウロコの手ざわり、そのひややかさは物凄く、本当にヘビがそこにいるかのように感じてしまう。


 寝巻にしわを寄せながら、二の腕に這いにじる。

 小さな口からチロチロと蝋燭の火のような舌を出し入れし、肩にまで来た。耳のそばに鼻先を寄せられる。


 つん、と耳に触れられた。

 その瞬間、忍はびくびくと布団の中で全身を震わせる。

 唾液まじりの変な呼吸がとまらない。


 咬まれちゃう。食べられちゃう食べられちゃう食べられたい食べられたい。丸呑みがいい。毒がいい。

 思いっきり口を開けたヘビに首の頸動脈から神経毒を流し込まれてめちゃくちゃ痛いのに意識はまだはっきりしていて、熱くて溶ける。アイスみたいに。消化されてどろどろになりたい。


『忍くん……』


 ヘビはそんなこと言わない。

 鼓膜に蘇ってくる和寿妃の声に忍は全身を縮めて耐える。

 ベッドがきしむ。まるで和寿妃が乗ってきたみたいに重みを感じる。


『ぐちゃぐちゃにしてほしいなんて、はずかしい変態さんだね』


 和寿妃はそんなこと絶対に言わない。

 だからこそ、これは忍の心の声だ。

 忍が頭の中で、和寿妃に言ってほしいことを言わせているのだ。

 たとえ幻覚でも、和寿妃は間違ったことを言っていない。忍は変態そのものだ。


『いいんだよ……汚いものは全部わたしにぶち撒けて、気持ちよくなろうね』


 目を覚ませばいいのだ。

 忍は浅い呼吸を繰り返し、この明晰夢から抜け出そうとする。

 白い手が額に伸びて、忍を優しく撫でた。忍は薄目を開ける。


 そこにある和寿妃の姿に、彼は我を忘れた。

 異形の姿だったからだ。

 乳房をあらわにした上半身。下半身は極太のヘビだ。

 さらには頭にはふかふかした犬の耳のようなものまで付いている。

 ――犬耳のラミア。


「うわあああっ」


 忍は悲鳴を上げて飛び起きた。

 日はすでに高い。体は汗でびしょびしょだ。

 辺りを見回し、そこが慣れた自分の部屋で、今日が祝日で、学校は休みで、そして自分がとんでもない淫夢にうなされていたことに気がついた。


 自分のわかりやすすぎる無意識に、忍は改めてショックを受ける。


 なぜラミアなのか。

 カツカレーじゃあるまいし、ヘビと和寿妃をかけあわせるなと自分で自分を殴りたい。

 ヘビにも和寿妃にも失礼な話だ。


 自己嫌悪のあまり、塩をかけたナメクジのようになった忍だったが、インターホンの音に身を起こした。

 壁の受信機を見て「うえ」と声を上げてしまう。

 カメラに向かってピースしているのは、和寿妃だった。


 居留守を決め込むか一瞬怯む。

 だが、ディスプレイに映るぴかぴかの笑顔を見ると応答していた。


「おはよう……」

『あーっ、やっぱり寝てたの? もうお昼過ぎてるよ』

「なに? なんの用?」

『差し入れっていうかー、ちょっと、お詫びに来たんだよ』

「…………?」

『まあ、とりあえず開けてもらってもいい?」


 忍の住まいはオートロック付マンションだ。

 和寿妃は一階の出入り口で足止めされている状態だった。

 翻って、忍は汗でドロドロの寝巻きを見下ろす。


「……開けるけど、ちょっとまだ出ていける恰好じゃないから、待ってろ」

『え!? ハダカで寝てたの!?』

「違う! 近所迷惑だからそこで喚くな。黙ってそこで待ってろ」


 忍は無理やり会話を打ち切り、乱暴に開錠ボタンを押した。

 宅配業者相手ならまだしも、起き抜けの状態で和寿妃の対応をするのは抵抗がある。

 エレベーターホールには来客用のソファに自動販売機まであるのだ。

 幼児じゃあるまいし、一人で時間つぶしくらいできるだろう。


 忍はバタバタとシャワーを浴び、身支度を整えた。

 着替えるあいだにケータイを見てみると、朝から和寿妃から何件か連絡が来ている。

 メールと電話を無視されたうえで、ただ単に寝ているだけだと判断して押しかけてきたらしい。推理としては大正解なのだが、忍にはマネできない度胸だった。


 おまけに時間つぶしもできない幼児ときている。

 適当なTシャツとデニムに着替え、エレベーターホールに向かおうと玄関のドアを開けた忍は、横から「おはよー」と声をかけられ、思わず脱力した。


「待ってろって言っただろうがよ……」

「だって忍くん遅いんだもん。わたし夕方から予備校だし」


 まるで悪びれない和寿妃は、ボーダーシャツにマリンスカートという夏らしい出で立ちだった。リボンの形をしたゴムで首にひっかけている麦わら帽がショートヘアに映えている。

 制服は優等生らしく着崩さないくせに、私服はおしゃれに着こなす。

 幼馴染の要領の良さに、忍はあらためて少しひいた。


「……で、何しに来たって?」

「えっとねえ、順番に渡すね。まずこれが忍くんの朝ごはんでしょ」


 すっと差し出されたコンビニのビニール袋を、忍は思わず受け取った。

 卵蒸しパンとカフェオレ、ヨーグルトまで入っている。


「きみが朝あんまり食べない人なのは知ってるけど、もういい時間なんだから少しはお腹に入れておいたほうがいいよ」

「…………どうも……」

「で、こっちが真理ちゃんからの差し入れ」

「はあ? なんでキツネさんが」


 言いながら受け取った包みを裏返すと、マジックで『ご愁傷様』と書かれていた。

 クールな狐塚らしくはあるが、猿渡から殴られたことが変な伝わり方をしているのかもしれない。


「ピアス用の消毒液だって言ってたよ。あると便利だよね」

「うん……」

「あとこれは、わたしからのお詫び」


 じゃーん、と口で効果音を言って袋を出した和寿妃は深々と頭を下げた。


「今回のことで、真理ちゃんから、きみがすっごく心配してたよって聞いたんだ」

「…………いや、それは別に」

「わたし、忍くんの優しさに甘えてたと思う。きみはわたしから告白されたりしても何も気にしないし、大丈夫だろうって勝手に思ってたの。そのせいで殴られる羽目にまでなっちゃって」


 和寿妃は形のいいつむじを晒したまま「だから、ごめんなさい」と謝った。

 忍はかえっていたたまれない気分になる。

 つい先ほどまで、こんな真面目な優等生を変な淫夢に登場させていたのだ。


「そんなの、別にいい。……それより、せっかく来たなら上がってけば」


 忍は玄関のドアを広げて和寿妃を招いた。

 ぱっと顔を上げた和寿妃は「いいの?」と喜んで忍に飛びついた。


「それじゃ、持ってきたやつ一緒に見ようよ」

「……いいけど。持ってきたやつ?」


 そういえばお詫びの品ってなんだ、と、忍は角ばった袋をまさぐる。

 和寿妃は満面の笑みで「とってもHなDVDだよ」と言った。

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