第10話 これがわたしときみの正解
意図せず教室を追い出された忍は、ふらふらと校内を歩き回っていた。
すでにホームルームが始まったようだ。
どの教室も空調を利かせるために例外なく引き戸がぴたりと閉められている。
がらんとした廊下を通り過ぎ、忍は階段を降りた。
昇降口近くの下駄箱を覗くと、和寿妃の靴はまだそこにある。
荷物も持っていなかったし、帰ったわけではないらしい。
忍は、しばらくの間ぼんやりとそこに立ち尽くしていたが、やがて靴を履き替えた。
目当ては校庭のそばに設置された水道だ。
蛇口をひねり、猿渡の唾液が付着した手を流水で流し、鼻血で汚れた顔を洗う。
顔を濡らしたまま、片目に残ったコンタクトレンズを外していると、不意に「はい」とハンカチを差し出された。
和寿妃は、横長の水受けに腰を預けるようにして、忍の隣りに立っていた。
「殴られちゃったの? ごめんね、ああなっちゃうと大衆って制御が難しくて」
忍は受け取らず、引き出した制服のシャツの裾でがしがしと顔を拭いた。
水で薄まったピンク色の血が、前身頃に少し付く。
水彩絵具のような色だった。
「真理ちゃんから聞いたの?」
「…………うん」
狐塚の名前を出されて、忍はうなずいた。
あの晩はばったり会った風を装っていた狐塚だが、話を詳しく聞いてみると、拡散された動画を見て、忍に探りを入れに来ていたのだとわかった。
中学時代には親友として和寿妃のストッパー役を引き受けていた彼女としては、見て見ぬふりもできなかったらしい。
「なんかまた暴走してんじゃないかって心配してた」
「そっか。……盲点だったなあ」
「…………」
「忍くん、ガラケーだし、交友関係死んでるから問題ないと思ったんだけど」
「問題ないって何が?」
忍は口の端を歪めて聞き返した。
「おれは情弱で裏で何をされてもどうせバレないから、利用しても問題ないってことか?」
その言葉に、和寿妃はぷいと顔をそむける。
「……そんな意地悪な言い方しないで。忍くんのことを利用なんてしてないよ」
「してるだろうが。人にてきとーに粉かけて、サルをその気にさせて。あんな人前で告らせようなんて、悪趣味すぎる」
「だってみんなそういうの好きじゃん」
和寿妃はむっとした顔のまま、端的にそう言い切った。
思わず言葉をなくす忍を、和寿妃は淡々と理屈を述べた。
「わたしは別に嘘なんてついてないよ。猿渡くんからのラインのことだって、忍くんにはちゃんと先に話したよね?好意むきだしのくせに告白してこないから振ることもできなくて困ってたんだよ。
わたしは、たまたま人通りの多いところで忍くんに告白しただけ。休みのうちに髪を切ったのも、そういう気分だったから。
誰から見てもわかりやすいような状況は確かに作ったよ。それは認める。だけど、変に盛り上がったのは、わたしじゃなくて周りのみんなじゃない。たったそれだけのことで利用したとか、騙したみたいに言われるのは心外だよ」
濡れた犬のように、ぶるぶるっと短くなった髪を震わせて和寿妃はつぶやいた。
「だいたい、髪を切ったイコール傷心だみたいな思い込みで、告白する気になる方が変だと思う。わたしには美容院に行く権利もないって言うの?」
「……サルのことは、最初から振る気だったのか」
「ううん。わたしが猿渡くんのことを好きとかいう、変な嘘をついた人がいるのは確かみたいだから、それが誰なのかわかるまではお付き合いしようと思ってたよ」
「自分で言ってて、打算的すぎると思わないのか?」
「なんで? だって、猿渡くんはわたしと付き合いたいんだよ。こっちはその目的を叶えてるんだから、みんなで幸せになれるじゃない」
そう言って体の前で両腕を広げる和寿妃は、まるで天使のような慈愛に満ちていた。
「忍くん、わたしはね。誰も損しないように行動しただけだよ。クラスのみんなも夏休み明けで刺激が足りないみたいだったし、猿渡くんは青春っぽいことをしたかったし、わたしは嘘つきを捕まえたかった。忍くんだって、わたしを振ったらもうつきまとわれなくなるんだから損じゃないでしょ?」
言葉の通じなさに、忍はめまいを覚える。
言っていること自体は、小学生の時から変わらない。
和寿妃は頭がよくて、心優しく、行動力もある。
ただ、俯瞰しすぎている。
自分も他人も盤上の駒と見なしているから、相手を思い通りにすることになんの良心の呵責も覚えない。
なんなら、未来をよりよい形に操作したことを、誇りに思っているふしさえあった。
「……おれが、おまえと付き合わないことも、想定通りだったってことか?」
「ちょっと幼馴染になに言ってんの。当たり前でしょう?」
和寿妃は腰に手を当てて、なぜか無神経さを責めるような口調になった。
「忍くんが人間の女の子に興味ないことくらい、見てればわかるよ」
「そうか」
「そうだよ」
「じゃあ、なんで泣いたりしたんだ」
「んっ?」
予想外な質問だったらしい。和寿妃は腰に手をついたまま、前のめりになった。
忍は黙っていた。
和寿妃は賢い。計算高く打算的な性質だが、その実、嘘泣きができない。
目的のために沈黙を守ったり、相手をあえて怒らせるようなことはできても、自分の気持ちに嘘をつける性格ではないのだ。
校舎の裏に隠れていた日が高くなり、白茶けたグラウンドを照らし始める。
ホームルームの終鈴が鳴った。
たった十分の短い休みの間に、死んだように静かだった校舎が息を吹き返したような騒ぎになり、また水を打ったように静まり返る。
いやな気分だった。学校とはつくづく狂った空間だと、忍は思う。
和寿妃はまだ黙っていた。
忍が視線を向けると、ようやく「わかんないや」とぽつりと言った。
「なんだか急に悲しくなっちゃったんだ。わたしはきっと、この先も一生、忍くんの恋人にはなれないんだって思って、なんていうか、すごく悲しかった。今でもそう」
悲しい、悲しいとしきりに口にする和寿妃は、その実、眉間に軽くしわをよせているだけで、その整った顔になんの表情も浮かべてはいなかった。
本気でわからないのだ。理屈に合わない自分の感情を受け止めることができない。
自分でもおかしく感じたのか、和寿妃は急に噴き出した。
「変だよねえ。きみが白妙に恋してることなんて、もうずっと前からわかってたことなのに」
そして同意を求めるように忍を見上げて、また笑う。
「なんで忍くんが、そんな顔をするの?」
「…………ごめん」
「えっ? なんで謝るの? きみは何も悪いことしてないじゃない」
人を責める気など毛頭ない和寿妃の、その純真さに、忍は痛みを覚える。
悪いことは、したのだ。なんなら、今現在進行形でしている。
忍は絶望的な気分だった。
ショックだった。白妙への気持ちを見抜かれていたことも。よかれと思ってあしらいつづけていた和寿妃が、そんな風に受け止めていたことも。
言葉が出てこない。
「ねえちょっと、大丈夫?」
深くうなだれた忍の頭を、和寿妃は慌てたようによしよしと撫でた。
その優しい小さな手に、絶え間なく撫でられながら、忍はこぼれるように嘆息した。
自分が、もっとまともで、ちゃんとした人間に生まれていたら良かったのにと思う。
「おれが悪いんだとおもう」と、忍は絞り出した。「おれが普通だったら、ヘビに変なことしたいとか、されたいとか思わずに済んだんだから。和寿妃も悲しい思いをしなかった」
だってもし普通でいられたら、きっと、和寿妃の恋人になれたのに。
お父さんとお母さんが揃った理想的な家庭の形を壊すこともなかったはずなのに。
「うーん……」
和寿妃は、まるで小学生の女の子が男の子を思いやるみたいに、心配そうな顔をしていたが「それじゃあ、こうしようよ」と、忍の両肩をポンポンと二回叩いた。
そうして顔を上げた忍の頬に、ちゅっと音を立てて唇をつける。
「忍くん、わたしと不純異性交遊をしよう」
あまりに軽い感触に、忍は頬を押さえて、しばし呆然とした。
「……ああ、そうだよ。なんでもっと早く思いつかなかったんだろう」
視界が回るようなめまいを覚える忍の、その中心で、和寿妃は笑う。
「忍くん、きみはヘビにしたくても絶対にできないような、いやらしいことを、全部わたしにすればいいんだよ。そうすれば、きみのヘビへの純愛は守られるし、わたしも悲しい気分にならないでいられると思う」
「は……?」
彼を巡る世界のノイズの激しさときたらまるで砂嵐だ。
そこでは和寿妃の輪郭だけが確かな像を結ぶ。
夏の終わりを知らない向日葵のひたむきさで忍の思考を鈍らせる。
「やっとわかった! これがわたしときみの正解だよ、忍くん」
「……なにを、言って」
「これでもう、絶対に独りぼっちになんてならないよ。きみにはわたしがいて、わたしにはきみがいるもの」
その言葉は、一筋の黒い光のように、孤独な忍の心を深く貫いた。
するりと和寿妃の手が忍の手に絡み、人間なので、ヘビではないので、手は二つあり、互いの胸がつくほど距離を詰めて、こんなに幸せなことはほかにないとばかりの勢いと力がものすごく、忍は。
「うん…………」
咄嗟に、彼女をどうしても失いたくないばかりに、小さくうなずいてしまった。
それは本当にか細い声で、興奮状態の和寿妃の耳にちゃんと届いていたかは、かなり微妙なところだったのだが。
「うん。そうしよう。よく考えたら、あの茶番に忍くんが再登場した時点で、教室じゃ元サヤってことになってるだろうし。いちゃいちゃしたらみんなも喜ぶと思うよ」
「はっ? いや、待てよ」
「ねえ鼻血舐めていい? 忍くんのヘビならきっとそうするよね?」
「え。おい、なにっ」
不穏な発言に忍は思わず距離をとる。
だが和寿妃は、まるでよく懐いた犬のような俊敏さを見せた。
あっという間に忍を水道の蛇口際にまで追いつめ、顔を押しつぶす勢いで覆い被さる。
忍は思わず目を閉じてしまった。
彼が最後に見たのは、眩しい青空を背負った和寿妃の、はじけるような笑顔だった。
「忍くん、大好き!」
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