第5話 犬も食わないやつ(後)

 マンションに帰り着くとすぐ、忍は洗面所でコンタクトレンズを外した。

 向かい風を浴びた目が痛む。

 顔を洗って鏡に向かうと、そこには彼の嫌いな素の顔がある。


 年々、別れた母親に似てくる気がするのだ。

 ネグレクトの傾向が強く、忍は物心つく頃にはすでに放置子だった。


 我が子に愛情を持たない親は、自然界では珍しくない。

 それは当事者にとってなんの慰めにもならない事実だ。


 田舎に単身赴任していた父親はその事実に長いこと気がつかなかった。

 忍が生まれてすぐの辞令だ。

 都会で頼るあてもなくワンオペ育児を強いられた母は、呆気なく壊れた。


 壊れたということなのだろうと、現在の忍は認識している。

 自分の知り得る情報でつじつま合わせをしてなお、彼には当時の母の気持ちがよくわからない。いや、わかってはいる。

 ただ単に、存在が不都合だから、いなくなってほしいと思われていただけだ。


 母の偽装が完璧だったことで、ネグレクトの発覚は遅れた。

 当時の記憶が曖昧な忍だが、無視される時と世話される時のギャップが物凄かったことはなんとなく覚えている。


 だから、たまの父の帰宅は、切実に嬉しかったし、有難かった。

 自分が世界一いい子になったような気がしたし、年に数回のその時だけが、忍が食卓に就くことを許される数少ない機会でもあった。


 死にかけのところを保護されたのは八歳の夏だ。

 事の発端は食中毒だった。

 冷蔵庫に背が届くようになっていた忍は、空腹のあまり生肉を食い、ただでさえ衰弱しているところに生死の境をさまよった。


 小児の誤食として病院に救急搬送されたが、栄養状態がかなり悪かったこと、母のから日が経っていて見た目が衛生的でなかったことから虐待が疑われた。

 おまけにこの時、救急車を呼んだのは母の不倫相手だった。

 連絡を受けて病院に駆け込んで来た実父と鉢合わせ、結局は何もかもがばれた。

 耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言が飛び交い、責任のなすりつけあいが起こった挙句、忍は引っ越ししてこのマンションで父と二人で暮らすことになった。


 おかげで彼は今でも肉らしい肉を口にすることができない。

 口いっぱいに頬張った、生臭い血の味を思い出すせいだ。


 買い置きしている冷凍の鮭弁当を平らげ、忍は自室でノートパソコンを開いた。

 母親に人生を狂わされたとは、自分のためにも思いたくない。

 しかし過去の体験と、自分の特殊な性的嗜好とが全くの無関係であるとは、とても言い難かった。


 生身の人間が恐ろしい。女が怖い。男も怖い。

 実母と不倫相手が不貞行為に及んでいる間、彼はいつも父が誕生日に贈ってくれた携帯ゲームをプレイしていた。


 ほらあな型のダンジョンに閉じこもり、ヘビの姿をしたモンスターと格闘する。

 ろくに回復もしないので、勝つ回数よりも負ける回数の方が多い。

 目と指でヘビを追いまわしながら、意識はイヤホンの外から漏れ聞こえてくる男女の営みへと向いている。


 実の母親が、すぐそばで他人とセックスしていることが、忍は怖かった。

 自分の存在を否定されるような気がしたからだ。


 もしも産まれてきたのが自分でさえなければ、母はその子を愛せたのではないか。

 いや、そうだからこそ、母は呼んだ男とまぐわってまで、新しい子供を産もうとしているのではないか。今もなお、忍の記憶の中で。


 自分に責任を求めすぎていると、頭ではわかっている。


 それでも自分なんて死んだほうがいい気がして仕方がないのは、結局のところ母親に愛されなかった自分の無価値さに気がついているからだ。


 暗い部屋では、ディスプレイの光だけがすべてだった。


 ノートパソコンに向き合い、ネットサーフィンで見つけたヘビの美しい曲線を、忍は繰り返しマウスカーソルで撫でる。


 コーンスネーク、カリフォルニアキングスネーク、セイブシシバナヘビ、ホンジュランミルクスネーク。ペットスネークの名前ばかり詳しくなる。

 愛嬌のある顔立ちに、美しいモルフ。


 触りたい。締めつけられたい。咬まれたい。


 忍はぞくぞくしながら検索窓に「ヘビ 大きい」と打ち込む。

 即座に表示されるボア、ニシキヘビ、アナコンダ。

 忍は興奮のあまり鼻血を吹きそうになる。


 丸呑みされたい。ひとつになりたい。

 ぐちゃぐちゃにされたい。ぐちゃぐちゃになりたい。

 血と肉と、精を、思いっきりぶちまけたい――……!


 そう思った次の瞬間、忍は音を立ててノートパソコンを閉じた。

 吐きそうだった。汚いと思う。自分を。心の底から。

 ヘビの気持ちなど、ヘビを愛し養う人々のことなどひとかけらも考えていないのだ。


 血は争えない。

 自分さえ良ければそれで良いとばかりに男を貪っていた母親と同じだ。


 急に頭が重くなった気がして、忍はぐったりとベッドに倒れ込む。

 途端に和寿妃のせりふが脳裏をよぎった。


『わたしの恋人になってよ、忍くん』


 あたりまえのように和寿妃に恋できたらよかったのにと思う。

 漫画やドラマでよくあるアレだ。

 口うるさいとばかり思っていた幼馴染を、なんやかんやあって異性として意識するようになり、キスだの子づくりだの結婚だのをする。


 ところが忍は和寿妃とそんなことはちっともしたくなかった。

 思えば長い付き合いだ。自分の一部のように感じることもある。

 それこそ陰口を叩かれたり、泣いたりしているところを見るのは嫌だ。

 こんなことになって、申し訳ないとさえ思う。


 でも自分が恋しているのは間違いなくヘビで、できるものならキスも子づくりも結婚も全部ヘビとしたい。ヘビになりたい。ヘビの腹で息絶えてヘビと同化したい。

 たとえそれが決して報われない想いだとしても。


「白妙……」


 愛する者を呼ぶ、自分の口から洩れる声があまりにも惨めで、忍は思い知らされる。

 自分が本当に愛しているのはこの世で白妙だけなのだとわかってしまう。

 彼女に触れたくて触れたくてたまらない。だが決して触れることはできない。


 愛しているからだ。あの美しい白妙をけがせない。


 とても口にできないようなひどいことを、したくてたまらないのに、白妙にそんな真似をする自分のことを、彼は絶対に許さなかった。


 合わせ鏡のような自己矛盾に閉じ込められ、忍は枕にうつぶせた。

 次に目が覚めたら、今度こそこの悪夢から抜け出せるのではないか。

 そんな淡い期待に縋るように、目を閉じる。

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