第8話 MONDAY

 猿渡さるわたり 崇志は、爽快な目覚めと共に今日がすばらしい一日になることを確信した。

 部屋の窓を全開にして、朝の新鮮な空気を肺いっぱい吸い込む。


 天高くから降り注ぐ空の蒼さがまぶしい。

 耳慣れた土鳩の鳴き声さえ自分を祝福しているかのように感じる。


 同室の弟二人から次々に「うるせえ眠い」「死ねッ」「よそでやれや」「ツラがやかましい」等々のブーイングと枕が飛んでくるが、まったく気にならない。


 彼は完璧に仕上がっていた。

 手にしたスマートフォンをそっと操作し、夢ではないことを確かめる。

 毎日すこしずつやりとりしたラインのトーク履歴は、彼の努力の証だ。

 小さな雫がやがて固い岩を穿つように、彼はついに成し遂げた。


 あの大柴和寿妃が今日こそわがものとなるのだ。


 思えばなんと長い道のりだったことだろう。

 夏休みから、毎日三件ずつ送り続けたトークとスタンプはいまや百件を越えている。


 話題を捻りだすのも一苦労だった。

 毎日の気候や、日々の過ごし方、好きなもの、苦手なこと、日々のさまざまな出来事に絡めて、彼はさりげなく自己アピールし続けた。


 対する和寿妃の返信はといえば、「そうなんだね」「知らなかったー」「すごーい」といった控えめで奥ゆかしいものばかりだ。

 見ようによってはそっけないともとれる反応で、彼女が自分に片思いしているという話は本当なのだろうかと悩んだこともある。

 だが、結局は杞憂だった。


 彼女もまた、苦しい恋をしていたのだと今はわかる。


 クラスメイトから動画が拡散されてきた時は、本当に驚いた。

 それは、和寿妃が同じクラスの不良である三輪 忍に告白してフラれる場面だった。

 真逆の生き方をしている二人だが、聞くところによると、なんと幼馴染らしい。


 和寿妃は非行に走った彼を、何度も更生させようとしたのだろう。

 実際、一生懸命に話しかける和寿妃を三輪がすげなくあしらうところを、猿渡は何度も目撃している。


 その時は、学級委員としての責任が彼女にそうさせているのだと思っていたが、あれも無垢な恋心ゆえのことだったとしたら、なんて健気なことだろう。

 ラインを重ねるうち、いつしか和寿妃の慎ましい魅力に惹かれるようになった猿渡だったが、この一分足らずの短い動画は、彼の気持ちを一気に加速させた。


 この傷心の大和撫子を、なんとしてでも、わがものにしたい。

 いや、このタイミングで和寿妃が三輪に告白したのは、過去の想いを清算するために決まっている。猿渡の好意はすでに伝わっているのだ。


 外堀はすでに埋まっている。

 あとは猿渡が一気に進軍するだけだ。


 念入りに戦支度を整えた猿渡は、家族から「もう目がイッとるわ」「ヤバいクスリでもキメたか」「いや顔の彫り深ッ」などと散々にこきおろされながら登校した――!


 そしてたどりついた2年2組の教室には、かなりの人だかりができていた。

 なんの騒ぎかと驚いた猿渡は、次の瞬間にハッとする。

 拡散された動画が、かなりの話題を呼んだということだろう。


 ただでさえ和寿妃は、学校の有名人で知り合いも多い。

 心配して慰めに来たのか、あるいは単なる野次馬かはわからないが、これでは二人きりになって告白するなど、とてもできそうになかった。


 それでも彼女を一目見たくて、猿渡は人波を掻き分けて前を目指した。

 人に押されて教室の席配置はかなり乱れていたが、和寿妃はいつも通り、きちんとそこに座っていた。


 その姿に、猿渡は胸を打たれた。


「か――髪を切ったのか、大柴さん」


 よろよろと前に躍り出た猿渡の言葉に、和寿妃はきょとんと瞬きをした。

 すぐに、はにかむような笑みを浮かべる。


「おはよう、猿渡くん。なんだか少し恥ずかしいよ……ちょっと髪を切っただけで、こんな騒ぎになってしまって……」


 微笑する和寿妃は、肩までかかっていた髪をばっさりと切っていた。

 襟足もすっきりとして、細い首筋に沿うように切り揃えられている。


 彼女の肩はこんなに薄かっただろうかと、猿渡はその儚さに愕然とした。

 女子が髪を切る意味くらい、不調法な猿渡でも知っている。

 和寿妃は失恋したのだ。


 その重みが、今さらのように猿渡の背中に圧し掛かった。

 自分は何を浮かれていたのだろう。動画の中でも和寿妃は泣いていたのに。

 ちゃんと眠れているのだろうか。食事は摂れているのか。


 そんなことばかりが気にかかり、通学の間、バスの中で突っ立っているだけで思い浮かんでいた百万通りくらいの告白方法がすべて吹っ飛んでしまった。


「こらァ! 日和ってんじゃねーぞ! 猿渡!」


 教室のどこからか上がった気合に、猿渡はビクッと肩を震わせた。

 クラスメイトの獅子戸シシド 玲央奈レオナの声に違いなかった。

 そういえば夏休み中に学校で会った時、軽く相談に乗ってもらったような気がする。

 その時は完全にからかう感じだったのに、意外と応援してくれていたらしい。

 獅子戸の声援を受けて、雑踏が一気にざわつく。

『えっ、猿渡って大柴さん狙いなの?』『モテモテじゃん。ウケる』―—雑踏から聞こえてくる囁きに、猿渡は背筋を震わせた。

 熱烈な告白を期待されていることが伝わってくる。

 その場に居合わせた全員の熱気に背中を押されるようにして猿渡は声を張り上げた。


「アッ……あのっ、かっ……………かずひ…………っ」


 こんなはずではなかった。

 全くスマートに声が出てこないし、裏返るし、汗が止まらない。


 この後、猿渡が『俺の女になれ!』と叫ぶと、和寿妃が頬を赤らめながらも『はい……っ』と答えてくれるに決まっているのだが、肩が震える。


 何人かが、自分に向かってスマートフォンのカメラを向けているのも見えるし、もし和寿妃が告白に答えてくれなかったら、自分は卒業するまで笑いものになるような気がして、声どころか息までできなくなってきた。


「猿渡くん。なあに?」


 だが、彼の目の前には天使のような大柴 和寿妃がいた。

 小首をかしげながら、大きな瞳でまっすぐに自分を見つめてくる。

 その瞳の輝きようといったら、まるで銀河だ。


 その小さな体のどこからあんな勇気を出して、告白したのだろうと思うと、猿渡は不意に激しい畏敬の念に駆られた。

 今この場で自分は絶対にこの気持ちを言葉にしなくてはならないと思う。

 猿渡は大きく息を吸い込み、


「大柴和寿妃っ僕はきみのことが好きだっ好きだ好きだ好きだっ大好きだっいつもがんばり屋さんでえいっしょうけんめいでえっ今だってっ自分がつらいっていうのにぼくに笑いかけてくれるし、きみのことがっ死ぬほど好きだっほんとなんだっこれからさきなにがあっても僕がぜったいにきみを守るからたのむっ僕と、僕とおっ結婚してくれえっ!!」


 そう一息に告白しようとしたのだが、いきなり後ろから伸びてきた手に口をふさがれて、なにも言葉にすることができなかった。


 パニックを起こしてジタバタともがく猿渡を、忍は庇うように背後へ押しやった。

 そして三輪 忍は、大柴 和寿妃と対峙する。

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