6:「私」のこの柔らかい願いを
月も雲も、山も海も。
取り囲む全てを血の霧で覆ってしまったから、何もかもその輪郭はぼやけてしまっている。
あの向こうには街が広がり、そこには彼女の体内から生まれた配下が、魔力を得るため蠢いているはず。
けれど、その影罪たちは次々に消滅しており、いっこうに魔力獲得の機会を得られない。
……きっと梗さんたちね。
確信できる。
マーカラが選択したのは、三枝を殺すための無差別な略奪。
汀・桔梗のスタンスは、それを許さない。
結局は違う生き物なのだ。
沖で冷やされた春風に頬をくすぐられながら、影神は小さく吐息。
隷となった少年は今、血霧の中を駈けている。微量の魔力が付随しているから、おそらくは旭あたりが一緒か。
ここに辿り着き、彼は何を伝えようというのか。
なにしろ、桔梗は諦めない。
強く微笑み、強く「大丈夫」と囁くだろう。
自分はきっと抗えない。いずれ訪れる別れの前倒しだと言い聞かせても、未練は大きく強いことを知っているから。
けれど甘えてしまえば、きっと彼を傷つける。
求められれば、拒めず、と言っても応じられもせず。
……アサヒに頼むしかないかしら。
ふがいなさに自嘲し、あの小さな人になんと告げるか、疲れた頭を巡らせると、
「ぅぅううわああああ!」
「⁉」
下方から迫る気配と悲鳴に、思考が強制中断。
驚いて視線をおろせば、
「た、助けてマーさーん!」
時速150km超過で、必死に手足をばたつかせている桔梗の姿が。
咄嗟に伸ばした手に、少年は一人むしゃぶるようにしがみついてくるから、マーカラは慌てて同行者の姿を探し、
「……え?」
霧のふちで、バイクごとゆるゆると降下を開始する小さな人を発見した。目があうと、指差しで何やら喚いているが、相対の距離と吹く風に紛れてよく聞こえない。心配に怒りを織り交ぜているようではあるが。
マーカラは「死ぬかと思った」と息を青くしている桔梗と、二人残されてしまい、
「……やられた」
端的に的確に、言葉がこぼれた。
桔梗は、何もかものあらゆる保険を断ち切って、ここに到った。マーカラが共でなければ、生身の人類である彼は、高度1500mから生きて帰ることはできないだろう。
卑怯な手だ、と影神は困ったように笑う。
これで、自分は彼から離れられなくなってしまった。
粟立つ「仕方ない」に、加速を意味する絵の具がついた頬を指で拭えば、男にしては細い腰へ腕を回して体を支える。
柔らかな笑みでされるがままだったが、一段落して見つめあえば、彼の両手が優しく力強く白い頬を挟みこんだ。
捕えられた視線先で、少年の眼差しは、深いまばたきを経て真剣な訴えるものに。
「マーさんに聞きたいことがあるんだ」
ああ、もう逃げることはできない。
その言葉は、まっすぐに届いてしまうから。彼の望むものを知り、自分の胸のうちを知ってしまえば、抗いようなどないのだから。
だから、影神は覚悟を決めた。
あとは待つだけ。
桔梗は、どんな言葉で地上へ帰ろうと誘ってくれるのだろうか。
どんな優しさで、胸を震わせてくれるだろうか。
……プロポーズを待つのは、こんな気持ちなのかしら。
取りとめのない思いに幸せを感じれば、唇がゆっくり動いて、
「ど、どうやって帰るの、僕……?」
「……私の覚悟を返してちょうだい」
あまりに急角度なエスコートに、影神の肩は一気に滑り落ちてしまった。
※
どのみち体を蝕む終末結束を解くことなどないから、この身はそう長く保たないだろう。
桔梗と共に地上へ降りることは決心したが、三枝・和也の命を奪わずにいては胸の収まりがつかない。
全ては、
「君を地上に送るついでよ」
この上なく、頬を柔らかに。
けれど彼は、マーカラが思っていた通り、
「ダメだよ」
頬を挟む手に力を込めて、強く否定してくる。
当然だ。彼のスタンスは、落ちる涙を許さないのだから。
「今の社会が「勝ち奪い得る」をスタンダードとしているのは、間違いないよ。けれどこれは、結果的に傷と不条理を生む、焦土作戦のようなものだ。
マーさんは、その不毛さをよく知っているでしょ?」
おそらくは、言うとおり。
ここまでの半生を奪い得ることで満たしてきた自分は、極東で出会った少年が与えてくれる潤いに驚かされたのだから。
もうかつてのように、無心では奪えない。
「もしそれでもマーさんが諦めないなら、僕も手段を選ばない」
「ふふ……あの結界を使われたら、確かにどうにもできないわねぇ」
魔力流動を拒否されたなら、無限の命を抱えながら無力な生き物に成り果ててしまう。そうなってしまえばこの身を守ることもできなくなってしまうのだが「手段を選ばない」ということは、
「マーさんを守るのは僕の役目になるよ?」
肩に傷を負って走ることもままならず、何もかもを救うとのたまっている少年が、だ。
「恐ろしい脅し文句ねぇ」
彼は軽薄だが、言葉を違える人間ではない。
だから、マーカラが三枝に敵意を見せた途端に能力を使用するであろうし、マーカラが傷を負うような目にあえば確実にその身を庇うであろう。
その、細く頼りない体で。
影神に残された選択肢は、
「……わかったわ。降参よ」
明色に嘆息して、抱きしめる腕を強くし身を寄せてやるだけ。
浜から吹く磯風に前髪を舞わせる桔梗が、傷のあるまぶたで微笑みに応えてくれた。
けれども、と影神は不安を禁じえない。
この無謀の塊のような少年は、この先どれだけの危機に出会うのだろう。そうして傷つき続けて、
「最後にはどうするつもりなの?」
どこに至ろうというのか。
問われた彼は、眉を少しだけフラットに戻す。
昔々から決まっていた言葉を紡ぐように、
「救うよ。何もかも……次元すら割りうる魔王だって、過去から現在へ侵食する邪神だって、銀河すら一呑みにする悪鬼だって。彼らが涙を流すというのなら、ね」
穏やかな笑みをこぼす。
彼の声に背筋が舐められ、胸が震えてしまうから。
「大物ばっかり。なら、諦め癖の影神を背負うくらい軽いものね」
こっそりと甘えてみれば、彼は大きく頷いて、
「けれど約束して。僕が倒れたなら、誰か一人でいいから、背負ってあげて欲しいんだ」
請われ、マーカラは笑みのまま目を細める。
「条件があったのね」
「ダメ?」
「ううん、望むところ」
空いた手を、甘えるように彼の指に絡めれば、
「これで思う存分、甘えられるんだから」
緩む手から逃れて、ねだるように唇を重ねる。
残ったものはほんのわずかといえど、この身の全てを桔梗へ預けるために。
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