第6章:やがてソコに辿り着くだろう

1:「彼」と「彼女」のスタンス

 痛い。

 胸が、張り裂けそうなほど痛い。

 最強と呼ばれる人間に、殴りつけられたせいだろうか。


 否。

 確かに体の半ばまでを砕かれ、保持のために多量の魔力を消耗したが、この苦しみの理由ではない。

 痛むのは心だ。

 大切に思い、大切に思ってくれた少年を、ほんのすれ違いで傷つけてしまった。

 ああ、と影神は吐息し、血の霧に霞みながらも目下に輝く街へ憂い満ちる瞳を注ぐ。

 地に張りつく夜景のどこかに、彼がいるはず。

 謝れば、笑顔の少年は許してくれるだろうか。

 どうだろう。


 ……わからないわ。


 わからないことが、こんなにも恐ろしいことだとは知らなかった。

 これまで単純化された相関の中で生きてきた彼女にとって、初めての経験だ。不明瞭なものは知る必要のないものであったし、その気になればいかようにもできてしまっていたから。

 けれど、これは違う。

 確かめるには彼に言葉を求める必要があり、言葉を求めるには彼の胸を確かめておきたい。

 欲する言葉がただ一つだから起きてしまう棘だらけの二律背反に、


 ……そうね。


 影神は諦める。

 そもそもの種が違う同士なのだから、いずれは時が二人を引き離す。いずれ訪れる別れの、これは前倒しに過ぎない。

 自嘲で感傷を舐めたなら、すべきことは一つ。

 こんな事態を招いた張本人である、三枝・和也を殺す。

 視線に圧を込めて、血霧の向こうに輝く街を見下ろせば、自分が否応なく戦闘種であり捕

食者であることを思い知らされる。


 ……やっぱり私は、このままこの先も、影神として倦んでいくのね。


 夢見てしまった「汀・桔梗のパートナー」にはなりえなかったのだから。


      ※


 暗い。


 暗闇の中に、幾つもの泣き声が聞こえる。

 どうしたのだろうと思い、耳を傾ければ、どれもこれも聞き覚えのあるものばかりだ。


 坊主頭のボクサー。

 老舗葬儀屋の跡取り。

 最強を追いかける空手家。

 画壇の天才。

 白銀の騎士。

 夢を見直した隻眼。


 他にも数多だ。

 両親の声も、同級生たちの声も、最強に辿り着いてしまった空手家に、人類を守らんと戦う青年の声も。


 少年は思う。

 全て、この身のために流れている涙なのだろうか、と。

 喉を鳴らせば、ひときわ大きな声を振り仰ぐ。

 声の主は、黒いパーティドレスを翻している金眼の女。


 自分が止めねばならない。

 きっと彼女も、この身のために泣いているのだろうから。


      ※


 体の末端があまりに寒さを訴えるせいで、桔梗は思わず意識を取り戻してしまった。


 重い頭をどうにか覚醒まで引き上げ、霞む目で辺りを見回す。

 地上の投光器によって城のような古アパートが中途半端にライトアップされており、光の下では見知った顔ががやがやとうごめいていた。


 ……春日荘の庭?


 天頂を見上げれば汚れの目立つテントがあり、横たえる身を鑑みれば簡易ベッドの上に。

 おや、と記憶の混乱に収拾をつけようとするが、重い頭はうまい言葉を与えてはくれず、


「おはよう」


 代わりに、聞き知った声が挨拶をくれた。

 桔梗はにっこりと笑い、


「やあナナさん。僕の寝顔に我慢できなくなって、イタズラしちゃったり……ウソ! ウソだから握った拳を振り上げないで!」


 手をばたばたさせると、その重さが気になる。

 拳を下ろした雪が、三白眼で呆れながら嘆息。


「無理するな。傷は三枝が塞いだけど、血が足りてないんだ」


 傷の一語で、錯綜していた記憶が合致。

 マーカラが作った血の円錐を、三枝を庇って腹に喰らったのだ。


「マーカラが影罪を放ったもんで、救急車を呼べなくなってな。体、大丈夫か?」

「はは。まったく、非常に大丈夫だよ」


 マーカラの傷を思えば。

 みんなの心配を思えば。

 その腫れた瞼を思えば。

 頭が重いくらい、四肢が冷たいくらい、体が動かないくらい。

 だから笑い、自分に何ができるか確かめなければ。


「マーさんは?」

「空の上らしい」

「らしい?」

「俺は梗さんにつきっきりだ。アコと颪とアニェスは三枝と打ち合わせしているし、ユッカと旭もこっちにいると泣いてばかりだから、あっちに放り込んである。だから、細かい話はまったくわかんねぇ」


 そっか、と短く応え、


「ありがとう、ナナさん」


 やはり短く礼を。

 少女は照れを隠すように口元を引き締めれば、


「行くんだろ?」

「……いいのかい?」

「止めたって聞きはしないからな、梗さんは」


 ごめんね、と笑えば、


「ナナさんも、木積さんが絡めば同じだもんね」

「頭のてっぺんからつま先まで、完全に本気だからな」


 成すべくを成すために、躊躇などない。


「そうさ」


 差し出された幼馴染の手に、自分の冷たい手を重ねて、ゆるゆると体を起こす。

 血の霧に覆われた夜の空を、見上げ見据えて。


「だから諦めなんかしないんだ」

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