9:愚者は故に血をこぼす
「梗くん⁉」
真っ先に悲鳴を上げたのは夕霞だった。
春日荘外側を回った阿古屋が見つけたのは、血溜まりに伏せる幼馴染の姿。
全員、蒼白の顔面を血霧に濡らしなばら、腹に苦いものを叩き込まれ、足を止めてしまう。
その耳を、心底を砕かんばかりの女の悲鳴が。
「マーカラ⁉」
「見ろ!」
雪が指差す先。悲痛な声の主が柔らかな金髪を振り乱しながら、顔を両手で覆っていた。
あ、を呼気の限りに叫び、切れては呑み、痛々しい慟哭を続ける。
その黒いパーティドレスが、じわりと夜に溶け込めば、闇そのものを纏うように。
同時、彼女の内圧が弾けた。
「最終装束化か⁉」
影神が持つ奥の手だ。
地が鳴り、風が荒び、人が圧される。
魔力は、車にとってのガソリンと同じだ。いくら蓄えがあろうとも、吐き出せる量は限られてくる。
そのリミッターが、いま外された。
……どういうこった⁉
阿古屋は混乱する。
マーカラの救出と桔梗の隷化には成功しているようだが、なぜ彼が三枝に背を向けて倒れているのかが不明であり、影神が完ギレ状態にある理由もわからない。
呆然と止めた足を踏み出せずにいる三人の目の前で、桔梗が溺れる血溜まりだけが大きくなっていくから、
「アコ! アコ!! 梗くんが!」
「落ち着け!」
取り乱す夕霞の腕を取るが、言葉は自分に言い聞かせたものだ。
疲弊しきったこの体で、身を削らんほどの圧力を突破するのは、非常に事だ。
桔梗に最も近いのは三枝だが、姿勢を支えるのが精一杯の様子で、あてにはできない。
闘争に身を置くからこそ、本能が生還の難しさを教えてくれるのだ。
それは、木積との一戦で神経が昂ぶっている阿古屋と雪も一緒であり、眉間を寄せ、空手家と視線で悲壮な覚悟を交わす。
と、
「邪魔だ、どけどけ!」
巨躯が、突然に彼らの横合いを駆け抜けていった。
見れば、テンガロンを揺らす後ろ姿が、圧倒的圧力を意に介さずに血霧へ。
「木積さん⁉」
驚きの声には応えず、先刻の敗北など嘘のような力強い足取りで、駆ける。
※
転がった事態の先に、三枝は解決すべき二つの案件を抱くことになった。
一つは、泣き叫ぶ影神の対処。
一つは、地に伏す少年の救助。
敵対していた内閣特別調査室の長という存在を、味方の刃から身を盾に庇った結果だ。
……やはり狂っているよ。
何から何まで整合していない桔梗の行動だが、圧倒的圧力を前に、三枝はもはや呆然と呼ばれる隙など抱えている暇はない。
口端を歪めて犬歯を剥き出し、圧されまいと姿勢を低く堪えるので精一杯だ。
三枝の携帯電話型の魔道書は、今は手からこぼれて足元に。
「動きようがないね……!」
すでに、血の霧による拘束は解かれてある。それでも動けないのは、大気すら震わせる殺意が、明確にこちらに向かっているせいだ。
「ああ! あなたさえいなかったら!」
慟哭するマーカラの形状変化に合わせるよう、血霧まで渦巻きはじめ、三枝を取り囲んでいく。
「なんなんだ! 梗さんを刺したのは、自分だろ!」
「あなたさえいなければ、こんなことにはならなかったのに!」
「責任転嫁もいいとこだ! とにかく、今ならまだ梗さんを助けられるから、落ち着くんだ!」
「……本当に?」
ぴたりと渦が止まった。
やれやれここからだな、と一息つけるが、
「けれど、ああ! けれど、ダメ! 私は、あなたを許せないもの!」
……錯乱しているのか!
再び、激しさを増す渦中へと引き込まれ、じっとりと背中を冷たく濡らせば、
「なら、ぶっとんどけ!」
「!!」
横合いから全力で疾駆してきた嗤う空手家が、そのままの勢いで脇を殴りつけた。
大砲を撃つような轟音をたてて、影神の半身が砕けちりながら空へ舞い上がる。
「苦労してるみたいだな、和也!」
「ああ、助かりまし……って、なんか矢が刺さってますけど⁉ 二本も!」
「いやあ、あのガキども、躊躇も容赦も知らねぇのな。ゆとり教育の弊害ってやつか」
「違うし、朗らかに笑うとこじゃないっすよ!」
こちらの心配を鼻で笑うバトルマニアは、空へと舞い上がった人類の捕食者を追って、横転しているトラックを踏み台に、アパートの屋上へと飛び移った。
……これで本当に一息つけたか。
未だ止まない霧の中で、それでも三枝は小さく肩を落とせば、頭上で泣き喚く影神を見つめて嘆息。
人を喰らう生物にとって、たかだか一人を傷つけてしまっただけ。
だというのに、泣き、叫び、暴れ、己を見失っている。
それほどに彼女を突き動かすのは、いったい何か。
「愛かな?」
いや、と足元の端末を拾い上げる‘ラブマスター’は首を振り、
「もっと面倒くさいものだね、きっと」
同情にも似たため息をこぼして、伏せる少年へと駆け出した。
※
頭上から、泣いている声が聞こえる。
……ああ、僕が泣かせてしまったんだね。
傷の痛みは、もう麻痺が進んだのか大したことはない。それよりも、彼女が泣いていることに胸が張り裂けてしまって。
けれど、桔梗は許すことはできない。
……殺しあったりなんかして、幸せになれるわけないんだから。
影神として幾百幾千の命を奪ってきた彼女を救うには、その手合いの行為が必要のない環境を作ってあげられれば、と考えていた。
伝わってくれると信じていたのだけれども、自分の見積もりが甘かったようだ。
だからマーカラを止めることができず、結果彼女を泣かせることになってしまったのだ。
暗く寒い夜に、桔梗は歯を噛んでうずくまれば、聞き覚えのある声たちが、名を必死に呼びかけてくるが顔をあげることもできなくて。
夜が深化する。
朦朧となる頭に渦巻くのは己が無力の悔しさだけ。
それは、四年前と同じ後悔だから、
「……ちくしょう……!」
あの時と同じ言葉が口をついた。
そして意識が途切れる。
夜の暗さが、眼差しへ沁みいるように。
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