8:最後の『一手』

 春風舞う空を覆った夜が、息を詰めて見下ろしていた。

 見つめあえば、失った片腕を掻くように抱き、砕かれた片脛に膝が折れる。

 普通なら瞬間で自己修復を果たす程度のかすり傷だが、今はそうはいかない。


「……参ったわね」


 震える声で、地に伏すマーカラは苦笑いを落とす。

 こんなことになるとは。

 諦観に沈んでいたところを桔梗に救いだされ、隷として契り、大幅な体力の回復に成功したというのに。


「残念だったね。梗さんの発芽がそっちの切り札だったろうに、これなら芽を出さない方がマシだった」

「……っ!」


 銃口を向けながら感慨無く語ると、破音に肩が砕け、三枝の手からは硝煙。

 背後からは息を呑む音。子供らが、銃の威力を認識し、萎縮したのだろうか。

 魔力は、ある。桔梗に分け与えられた多量の温もりは、間違いようもなく、胸の中に。

 けれども動かせず、損失を埋め合わせることができない。

 どうしたものか、と一息呑めば、


「ごめん! 三枝さんの言うとおり、僕のせいだね⁉ 僕のせいだ!」


 胸にしまわれたものと同じ暖かさが、伏せる身を抱き締め起こしてきた。

 思案の吐息が安堵に染まり、自覚をすれば思わず頬が緩んでしまう。

 闘争の最中に、抱き締められて安心するなど、今までにはなかった。常に捕食者であり、孤高にあったのだから。

 涙ぐむ謝罪に、しかし呼吸を乱した影神はすぐに応えられず、


「全て、君のせいだ」

 代わりに、三枝が事実を告げた。


「人類の敵である影神が脅威を取り戻したことも、彼女が命を落とそうとしていることも。どちらに転ぼうとも救われる者はなく、そして君が元凶だ」


 突きつけられる言葉に、抱きしめる腕が強ばる。

 だから、背を支えようと言ってくれた少年に、今は何ができるものかと考えれば、


「違うわ。違うから、泣かないで」

 笑顔で強がってみせてやることくらいだ。


 彼はマーカラの背後から腕を回してくる。だから表情は確かめられなくて、けれど、後悔は手に取るように。

 笑ってみせるしかない。

 アパートからのこぼれ日を背負う三枝は、付き合いきれないという風に肩をすくめて、照準を定め直すと、


「まあ、何はともあれ、もう手加減できないからね」


 人類に対する完全な捕食者である影神が、力を取り戻しているのだ。この機を逃すことができないという、彼の言い分もわかる。

 だから、影神は囁く。


「さあ、ほら。梗さん、早く逃げて」

「⁉ 何を言って……!」

「消える覚悟ができたか。さあ梗さん、彼女の言うとおりに。出来ることなら子供は殺したくないんだ」


 消えるの言葉に、桔梗の強張る腕が震えた。

ああ、と嘆息を隠せない。


 ……どうしてこの子は、他を見捨てておけないのだろう。

 こちらの思いなど見向きもせず、救うことの一点張りで命すら張ってくる。


「諦めるなんて許さないよ。僕は、全部を救うことを望むんだから」

 度し難い。

 けれど、温かくて。

 彼だけは巻きこむまいと切に思うが、しかし残る四肢が一つというこの有様では、身を委ねるしか。


「いいことを思いついたんだ」


 マーカラは、意外さと疑問に首をひねる。

 魔力の停滞により、カゲツミはその真価の1%も発揮できない。現状、ボクシングを高い領域で修めた拳に銃を握る青年が、最大戦力である。

 果たして、この状況を回避する一手など、あるものなのか。

 不信は三枝も同じようで、


「なら、なにかされる前に終わらせようか」


 トリガーに指を引っかけて、力む。

 と、影摘みの鉄靴が弾かれたように石畳を強く蹴り、


「ダメよ、梗さん!」

「とめろ! そのバカをとめるんだ!」


 彼の友人たちが、余裕をすりつぶして、血を吐くように叫ぶ。

 短い付き合いだが、常に不敵とゆとりを抱いていた少年と少女による必死の声音に、マーカラは思わず面食らう。


 同時。


 頭に向けられた破壊の口が、火を吐いた。

 子供たちを鑑みながら、しかし、衝撃に身がまえまぶたを下ろす。

 が、訪れるべき終わりは、いくら待とうとも辿りつかず。

 浮かぶ疑問符に、おずおずと目を開ければ、


「……梗さん⁉」


 姿勢を入れ替えた桔梗が、射線に割り入っていた。

 密着する影神は、彼の全身がひどい硬直に襲われていることに気付く。

 それは、負傷の痛みによるものだ。

 やがて弛緩し、今度は崩れ落ちる。

 咄嗟にその軽い体を受け止めると、


「おお……思ったとおり、腕は治ったね」


 言われてみれば。

 けれど、なんと無謀な。

 心配ゆえの激怒をぶつけんと、肺を大きく膨らませるのだが、


「びっくり解除、大成功だよ……」


 脂汗をびっしり浮かべながら微笑まれると、言葉は詰まってしまって出てこなくて、


「――っっっ!!!」


 抱きしめる腕に力を込めて、胸の震えが伝わってくれることを祈るしかなくて。


      ※


「よかった」


 喉を笛のように鳴らしながら、少年は青ざめる頬で微笑みかけてくる。

 目を下ろせば、シャツの肩あたりに血が滲んでおり、


「よくなんかないわ」

「よかったよ。なんにもない僕だけど、マーさんを救えたんだから」


 慌てたように銃声が幾度も続き、マーカラの肩を腕を背を抉る。

 けれど、力を取り戻した彼女にとっては、蚊の一刺しのごとく。

 意に介さぬまま、力ない体を庇うようにして横たえれば、


「待ってて」

 一つの決断を伝える。


「彼、殺してくるから」

 許すことはできない。


 これまで少年らの被害を回避しながら立ち回っていた三枝・和也だったが、ついに桔梗の死を構わずに一撃を見舞った。命中したのは致命部位ではないにしろ、一つ違えば取り返すことはできなくなる。

 少年はすでに隷であり、パートナーである。でなくとも衰弱を救われ、胸の寂莫を救われている。

 得がたく、代えがたい存在だ。

 それを奪おうというのなら、本当に本当に、マーカラ・カルスタインにとって三枝は許すことのできない敵である。

 力ないパートナーから、そっと身を剥がそうとすると、


「ダメだ!」


 桔梗の両手が必死にしがみついてきた。が、人外の膂力が相手では、一秒も保つことは出来ず。優しく、ゆっくりと五指を剥がしていけば、


「殺す? 怖いこと言うなあ」

 背後から、おどけた声。


「手はあるの、サエグサ? 正面からじゃ、勝てないでしょ?」

「確かに。加えて言うなら、こんな事態は想定してません」


 勝ち目無しと肩をすくめる三枝に、薄く伸ばした冷笑を。

 と、桔梗が、


「ダメだよ、マーさん! 恨みつらみで争っても、良いことなんかないよ!」


 歯を剥いて、怠そうな腕を無理に伸ばす。

 彼が放つ必死さの深度に驚きながら、けれどもくるりと身を回して逃れれば、


「ほら、お迎えよ……キョウさんのこと、お願いね」

「是だ」

「アニさん⁉」


 白銀の手甲が、傷を負った少年を抱き上げた。

 鉄面皮が首を大きく縦に振ると、


「是だが、約束しろ」

「サエグサを殺すな、ね? 無理よ」

「……!」

「きっと、八つ裂きにしたって物足りないもの」

「マーさん!」


 笑めば、溢れる魔力に影摘みが身動ぎ、凄惨な言葉に少年がいきり立つ。

 全てに聞こえないふりをして、背を向けた。

 桔梗には、本当に感謝している。

 これほどまでに怒れるのは、彼がいたおかげだから。

 その矛先が向かうのは、口元を引き締めサングラスに視線を隠す三枝・和也。


「いいの? 俺を殺したら、梗さん許してくれないんじゃない?」

「いいのよ。だとしても、私はあなたを許せないんだから」


 指揮棒を振りでもするように浅く立てた指を持ち上げると、白い腕に漲る魔力を押し流してやる。

 奔流は血のように黒ずんで、指先から噴霧として現出。

 瞬く間に、周囲は血の霧に覆われていく。


「ここまで回復してたか!」

「梗さんのおかげでね」


 三枝の怯みに構わず、空間の主は指を滑らせた。

 動きに合わせるよう、たじろぐ三枝の首周辺の霧が赤味を増す。

 咄嗟に飛びのくことで首は救われたが、振り上げた右腕が犠牲に。

 濃くなった霧が、人の腕を捕らえる。

 自由を奪ったところで、続いて逆の腕も。

 即座、端末を握る彼の指が閃くが、拘束が軋むばかりで解放には至らず。


「ダメか! 前は割とあっさり抜けれたんだけど!」

「あの時は、だいぶ消耗した後だったもの」

「っ――!」


 赤い粒子が三枝の五指に忍び込めば強引にねじあけて、武器である端末を地に落とす。

 影神マーカラ・カルスタインは、血液上の魔力体を自在に操ることができる。それは、霧状に吹き散らしていたとしても、変わらない。

 指を再び滑らせれば、霧が凝り固まって現れるのは先端したたる血の三角錐。

 穂先は、両腕の自由を奪われた黒スーツへ。


「……シャレになんないよ」

「シャレで終わらせる気もないしねぇ」


 引きつる口元を冷笑し、黒ドレスの裾を躍らせれば、

「死になさい」


 腕を振り下ろす。

 肉が血を吹く音とともに、確かな断裂の手応え。


「……⁉」

 驚きがあがる。


「……そんなバカな」

 憤慨があがる。


「なんだ! なにしてんだ、アニ!」

 自失があがる。


「痛いと言うから、傷を見るために……!」

 焦燥があがる。


「いいから、とにかく助けるのよ!」


 錐が貫いたのは、庇うように飛び込んできた汀・桔梗の腹部。


「ダメだって、マーさん……!」

 呻く口から、血の塊が落ちる。

 そしてマーカラは体を震わせ、

「あ、あ、あ……」


 悲鳴が巻きあがる。

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