3:あなたが迫るから、唇が疼くのだ

 マーカラ・カルスタインはその白い額を、壁面へ派手に打ちつけていた。


「いたた……何事?」


 揺れは断続的に、大小問わず彼女を襲うものだから、困り眉で体勢を維持するので手一杯だ。油断すると、あちこちにあちこちをぶつけることに。

 外では状況が動いたようだ。

 怒声や戦闘の喧騒は聞こえるが、アルミ壁を挟んでは判然としない。それでも予想し得るものはあり、


「……梗さんたちが来ているのかしら」


 だとしたなら、正気ではない。

 昨日の戦闘で完全な敗北を喫した。勝ちを拾う可能性はゼロに等しく、命の危機も間違いなく存在していることを、わからないわけがない。

 思わずこぼれる言葉は、


「それでいいの?」


 しかし、心配ではなく静かな喜びに染まる。

 少しでも様子が知りたく、彼の声が聞きたく、弱る影神はぴたりと壁へ耳を寄せれば、


「だ、ダメだって! いくら軽くなってるからって、トラックは担いで歩くものじゃないよ!」

「わかってるわ! ただ担いでるわけじゃ、芸がないものね! さあ、アニ! こっちよ!」

「是だ!」

「うわー! こらー! レンタカーなんだからー!」


 三枝の悲鳴と同時、車体全体に強烈なGがかかったと思ったら、浮遊感が。と思ったら、逆側へのGが。


「うあー! 八頭っちゃん、ナイスキャッチ!」

「こっちだ! 八頭、今度はこっちに寄こせ!」

「だー! ダメだって! 補償、誰がしてると思ってるの!」

「くく! バッタービビってる、ヘイヘイヘイ!」

「ぎゃー!」


 同じような悲鳴とGが、また。


 ……何してるのかしら?

 想像しかできないが、決してロクなことはしていないだろう。何度も額を打ちつけている自分も被害者の一人だ。

 だが、賑々しさは不快ではなく、笑みを誘われてしまって。


「よーし! ウッチー今度はこっちだ!」

「やーめーろー! 君ら、俺にどんな恨みがあるんだ⁉」

「ほら! ほら行ったぞ! ちゃんと取れよ、梗さん!」

「任せてよ! 僕を誰だと……あ」


 浮遊感が前二回より長いわねぇ、などと首を傾げると、


「ぎゃー! 何やってんだよー!」

「ごめん! ごめんよ!」


 悲鳴と金属の削れる音が、下方斜め方向からのGと共に襲いかかる。

 マーカラの体は浮き上がり、その勢いのまま横滑りしていく地面を見つめていると、背中を後部ハッチに叩きつけられた。ついでに後頭部も、思い切り。

 そうして息の詰まる女の体が落ちる先は、壁だったアルミ板。


「……はしゃぎすぎじゃない?」


 痛む後ろ頭を押さえながらのうんざりした呟きに応えるよう、天頂側となった壁面のハッチが開いた。

 驚きに見つめていると、心許ない空の明かりを背負った人影が、怖々覗きこみ、


「おお、結構高いんで……うわ!」


 手を滑らした。

 季節外れのワイシャツ姿で、同じ目の高さまで落下してきたのは、


「キョウさん……?」

「やあお待たせ」


 諦めていた、少年の笑顔だった。


      ※


 暖かな手を握り、彼の軽い体を助け起こすと、


「どうして来たの?」


 問いに込めるのは無謀への叱責。

 だがそれ以上に、彼の理由を知りたくもある。

 少年は足元をふらつかせながら立ち上がると、弱々しい白熱灯に焼かれる頬で変わらず微笑んだまま、


「諦めてたでしょ?」

 ああ、確かにそうだが、しかしどうして?


「どうしても助かりたい人に、こっちの理由を訊く余裕なんかないよ」

 その通りだ。


 同時に一つ、自覚を得る。

 諦めたということは、やはり自分は救われたかったのだ、と。この命の話ではなく、奪い続けるという荒廃した生き方から、だ。

 一度与えられる潤いを知った心は、もはや渇きには堪えられないよう。

 だから、叶わないのであれば諦めるしかなかったのだが、


「大丈夫よ」


 彼はそんな自分へ、強引なまでに手を差し伸べてくる。

 だから、応じる。

 微笑んで応じる。


「あなたがいてくれるなら、私は決して諦めないわ」


 白い腕を彼の細い腰へまわし、強く抱きしめた。

 そっと額を寄せれば、傷のあるまぶたを閉じた少年が、柔らかく囁く。


「じゃあ、一緒に行こうよ」


 パートナーとして、という意味か。

 ならば、是非などない。

 けれど、


「キスは?」


 最初に魔力を貰った方法。

 確認がてら甘えるように唇を寄せてみれば、彼はすれ違うように首を傾け頬を重ねて、


「一件落着したら、ってのは?」

「ふふ。素敵なご褒美ね」


 契約は完了した。

 胸が震える。

 空っぽだった心と体に、彼が力を、いささか乱暴にだが流し込んできてくれるから。

 この胸が震えてしまって、たまらなくて。

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