8:誰も彼もが
柔らかな吹きあげが耳元を行きすぎる。
木々をも揺らさない風の音が、こんなにもはっきり聞いたのは、いつ以来だろう。
校内が静まりかえっているせいもあるが、この胸の緊張が一番に大きい。
「アニさん。僕、大きいこと言いすぎたかなあ」
昇降口から外へ出た桔梗は、隣に並ぶ長身の少女に問う。
彼女は大きく頷くと、
「しかし、自分たちにはちょうどいいくらいだ」
だと嬉しいよね、と少年は微笑みかえした。
と、通常教室二階の窓が勢いよく開けられると、教室でだらだらしていたのであろう、ちょっとやんちゃな連中四、五人が身を乗り出して、
「おい、会長! どこに遊びに行くんだ⁉」
「な⁉ 失礼だな、君たち! 僕は遊びに行くんじゃないよ⁉」
「おいおい! どうせ、またバカしに行くんだろ!」
「バカってなんだい⁉ 僕はおっぱいを揉む時だって、全身全霊だよ!」
「ははっ! まあ、帰ったら話聞かせろよ!」
笑みで手を挙げて応えれば、今度は三年教室の窓が開けられた。
現れたのは、この世の終わりを目撃したような顔で震える最上級生で、
「お、お姉様!! 今日はお相手してくれないのですか⁉」
「……おねーさま? アニさん、二年だよね?」
「是だ。不可解だが、副部長は自分のことをそう呼ぶ」
「へぇ……」
「お姉様! 答えて、お姉様!」
「おやめなさい! アニ様はすべきことがあるのよ!」
「そうです! アニ様の迷惑になることが、副部長にはわからないのですか⁉」
「……アニ様? アニさん、二年だよね?」
「是だ。不可解だが、女子剣道部員は全員そう呼ぶ」
「へぇ……」
「お姉様! お姉様!」
野次馬が見つめるなか、錯乱している女子剣道部副部長は部員に引きずられて窓枠から姿を消した。
ふと気づけば、校舎の窓々は人で埋まりつつあった。右手の通常教室棟も、左手の特殊教室棟も、正面の渡り廊下にも。
誰も彼もわいわいとお祭り気分で、屈託なく笑っている。
ああ、と桔梗も笑う。
期待があるのだろう。あの馬鹿野郎は、本当に吐いた大言を成せるものか、という。皆、それを見届けるために、確かめるために、集まったのだ。
彼らに自分の言葉が届いてくれた証だ。
感慨に耽っていると、野次馬から歓声があがった。
「なんか、すげーことになってんな、ん?」
昇降口から、巻きかけのバンテージを翻した阿古屋が現れ、
「先輩! 今日はサボりっすか⁉」
「おめぇ、厳罰だぞ厳罰!」
「だからせめて勝ってこいよ!」
部室棟側の校舎裏から、ボクシング部の面々が野次を飛ばしてきた。IH王者の登場に、生徒たちの熱気も増す。
少年は苦笑で応えると、二人の少女がその後ろに続く。
「くく! すごい人気ね!」
黒髪を垂らした小さな人と、いろんな部位がベリーショートの空手家だ。
「いや、おめーらには負けるよ、ん」
半目で阿古屋が指差す先には、
「ミニスカ!」
「ふともも!」
「モロパン!」
一部から、えらくコアな歓声が巻き起こった。どこか狂気をはらみはじめているものの、それを許容できるほど祭りの熱気が増している。
いつしか、ざわめきが歓声に変わりつつあった。
「ほらナナ! 期待されてるわよ!」
「原因は全部お前だ、スカート捲り魔!」
「人のせいにしないで! ナナがエロい体をしてるのが悪いのよ!」
ぎゃーぎゃーと喚きあいながら、三人は桔梗の元へ。
笑みをかわすと、旭が手を打ち、
「次が本命よ!」
指差すのは、敷地の隅にある弓道場に向かう通用路。
そこから、
「す、すいません! 弓を用意してたら遅れてしまって!」
長物を担いだ走る夕霞が、文字通り豊かな胸を弾ませて現れた。
途端、
「「「「「おおおおっ!⁉」」」」」
男子生徒の怒号で校舎が揺れ、祭りはさらにヒートアップ。
びく、と歩みを止めた夕霞は、
「な、な……何事です⁉」
「くくく! 寝ぼけてるの? みんなあんたのその胸からぶら下がっているビックリするほど乳、略してビッチに大興奮なのよ!」
「へ⁉ あ、は⁉」
咄嗟に両手で隠すものの、ギャラリーの反応を煽るだけ。
「心配無用よ、ユッカ!」
「なにがですかー⁉」
「皆、性的な意味で興奮しているわけじゃないわ! こう、身長2m50オーバーの人を見るような目で……!」
「万国ビックリ人間的な意味合いですよね、それ⁉」
「口答えするの⁉ じゃあ、性的な意味で興奮されたほうがいいの⁉」
「いや、そうじゃ……!」
「さすがね! さすがビッチ! みなさーん、聞きましたかー⁉」
全員が口々にYESを連呼。
「いや、あの、皆さん、その――!」
「さんはい、びーっち! びーっち!」
しどろもどろに弁解しようとする弓道部の声を、旭の扇動による「ビッチコール」が全て呑みこんでいく。
半泣きになりながら、
「い、苛めじゃないんですか、これ!」
弓を用意し始めたので、男子生徒と旭はすぐさま物陰に隠れた。
熱気はまだまだ渦巻いているなか、桔梗は昇降口に友人を見つける。
その人影は革製の眼帯をいじりながら苦笑いで、
「なんだ。なんだ、このいい空気は」
出にくそうにしていた。
と、特殊教室棟からあがった黄色い声に、疑問符で振り仰ぐ。
瀬見内・颪の名は、クラスメイトと友人連中くらいしか知らない。その名の意味するものを理解しているのは、生徒会の役員だけであろう。実績のある他の面々に比べて、段違いに影が薄いのは、本人も自覚をしているところだ。
だから、歓声に戸惑うのだろう。
駆けつけた桔梗が彼の手を取ると、歓声の量がさらに増すから、
「どういうことだ? 梗さん、こりゃどういうことだ?」
「彼女たちは自主創作系のマンガマニアの方々だよ。一番人気が孫っち×僕で、次点が僕×ウッチーらしい」
「よし。よしわかった手を放せ」
「もう。ウッチーはツンデレなんだから。ちょっとはサービスしないとダメだぬあっ⁉」
空いた手で眉間を突かれ、うずくまる。そんな桔梗を置いて、颪はとっとと皆の元に。
ひどいなあ、と呟きながらすっくと立ち上がり、彼も後を追う。
輪になって微笑みを交わしあうと、
「正直に言うと、誰も来ないんじゃないかって、少し不安だったよ」
全員が、穏やかに笑い、バカを言うなと声をそろえた。
「お前の望むものが、俺らの望むものだぞ。ん?」
ありがたい話だ。
迷惑ばかりかけっぱなしだというのに、皆はそう言ってくれる。
だから素直に、ありがとうと頭を下げる。
「会長!」
不意の呼びかけは、背後にある校舎渡り廊下から。
訝って振り仰げば、屋上に陣取ったブラスバンドの演奏開始に合わせて、各横断幕が、一斉に広げられた。
阿古屋の名前があり、夕霞の名があり、雪の名がある。なぜか、正規部員ではないアニェスと帰宅部の颪、美術部の旭のものまで、どれもハートが乱舞するデザインで、強まり始めた夕風に身を翻していた。
「会長、見せてくれよ!」
誰かが叫び、叫びは広がる
「手を伸ばしたなら届くことを!」
「大切な人を助けられることを!」
「諦める必要なんかないことを!」
と、ざるを抱えた男子生徒が窓から乗り出し、その中身をぶちまけた。
紙吹雪だ。
歓声のなか、浜風に踊り、夕日に染まる放課後を彩っていく。
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