6:燻りを待ち焦がれる
夕日が校舎をオレンジに染める。
いつになく人気がない放課後の廊下を、阿古屋は一人、鞄を担いで歩いていく。
愛嬌のある顔に浮かぶのは、流れてしまう時への焦がれと諦め。
「せっかく、ウッチーとユッカが頑張ってくれたってのに」
期待を手に入れたのは昼休み後の教室、夕霞の口からだった。相手の動向に隙があることにガッツポーズまで取ったのだが、結局、事態は進まないまま、時間ばかりを刻んでいく。
騒動が動かないのなら、人は日常に帰らざるをえない。
ポケットに突っ込んでいたバンテージに吐息し、少年は足重く部活に向かっていく。
結局だ、と坊主頭を掻きながら、自嘲。
「結局俺らは、全部アイツが真ん中にあるんだよな、ん」
もはや何も持たないというのに、彼が立たねば誰も立ち上がることを選ばないのだ。手を引くこともなく、背を押すこともなく、下準備なら勇んでやるが、最後の一線は笑顔の幼馴染が越えるのを待つだけ。
長い間、ずっとそうだったから仕方がないのかもしれない。
常に、最初の一歩は桔梗が踏んできた。彼が成ると言えば、不思議と成し遂げられるものだから、自然の流れだ。深く素早い洞察に裏打ちされていたのだろうとは、今にして思うことだが、子供の時分ではまるで魔法を目の当たりにしている気分だった。
今はもちろん違う。
四年前に脳へ損傷を負った彼は、もはやかつての思慮は持ち合わせていない。けれども誰よりも早く一歩を踏み、誰よりも速く事態の最前線をふらふらと歩いていく。周囲は、かつてのように大切な幼馴染の決断を成すために走りだしては、欠けてしまった彼を埋めあわせるためにスペックを振う。
だから、桔梗が立たねば、誰も彼のために力を放てないのだ。
諦観めいて肩を落とせば、長身に夕空を当てながら階段へ足を。
「阿古屋さん! 待ってください」
二段降りたところで、背後からハイトーンの幼い声が呼び止めてきた。
振り返れば、中等部の制服を着た少女のような少年が、
「シータ?」
生徒会はないはずだし、だいたい、桔梗は屋上で丸まっているはずだしで、彼がここにいる見当がつかない阿古屋は、片眉を上げると首を傾げた。
「桔梗さん、知りませんか? どこにもいないし、誰も知らないみたいで」
「なんだ、ん? セクハラされにでもきたか?」
「そんなわけないでしょう! 違うくて、昨日無断で休んだのを謝ろうと思って!」
ははあ、と納得の吐息。
桔梗を探しているのなら、答えは一つだ。
「悪ぃけど、今あいつ動けねぇんだ、ん。会ったら伝えておくよ」
「え? 動けないってどういう……」
「会ったら伝えておく」
頑なに言葉を重ねれば、シータも悟ったようで神妙に首を縦に振った。
生徒会からこんなにも動性が消えたのは、任期以来初めてだろう。それに加えての桔梗の動向だ。この聡い少年なら、真実の間近まで迫っていたとしてもおかしくない。
その証拠に頬を明るくして、
「けど、昨日は大変だったみたいですね。校内に不審者が入り込んだとかで」
話題を変えてきた。
彼の歳に似合わない気遣いにもだが、その内容に阿古屋は苦笑。
……確かにそんな話になっていたな。
内閣調査室の室長が、警察という武力を動かすために作り上げた体面だ。事態の真芯にいた自分たちは、完全に忘れてしまっていたが。
「そのときは、皆さん定例会で学校にいたんですよね?」
「凄かったぞ、ん。銃声するわ、梗さんはノーヘルどころかノー服でバイクに二ケツするわ」
「え? え⁉ な、なんですそれ⁉ いいんですか⁉」
「よくねーよ。ノーヘルなんだから」
「そこじゃありません!」
いや、法に引っかかるのはそれくらいだろ? と、笑って見せれば、まったく、とシータが肩を落とす。
「けど、新聞にも載ってましたよ。家の人、心配しませんでした?」
「どうだろうな、ん。昨日は結局、全員で桔梗の家に泊まったから」
「外泊ですか? 平日から?」
「まあ、昔からの付き合いで、親同士も知ってるからな、ん。けど、そういやユッカとウッチーはえらい長いこと電話で親と話してたし、旭もすげー鳴ってたぞ」
「阿古屋さんは?」
「俺とナナは別段なにも……なんだ、その反応に困りますみたいな顔は」
「い、いや! ただ、親御さんの教育方針がこんなことになってしまったんだなあって!」
……それが本心か?
内容のない弁明に、半目になる。慌てたシータの二度目の転換は、
「じゃ、じゃあ桔梗さんのご両親は? 心配してました?」
「ああ。あいつの両親な」
阿古屋にとっては、完全な悪転だった。理由を知るのは、この場では自分一人だから、眉間にしわが刻まれようとするのを、なるべく軽い色にしようと努める。
こちらの、悔しさと悲しさが入り混じりながらフラットを保つ目元に気づき「え?」と戸惑いの声を。
「あいつ、親に諦められたんだ」
聞き手が、情報の意味を理解しきれず、小震えして静止した。
「元は文武ともに天才児で、特に母親がすげー期待してたんだよな、ん。塾に通わせて、習い事をさせて、一日ん時間も勉強させて、末は医者か政治家かってな具合よ。
で、まあ期待通りに育ってたあいつは、四年前に致命的な怪我をしてな。
胸から肩にかけての筋肉をごっそり持ってかれて、陥没した頭蓋が脳を傷つけちまって」
ダメだ。
やはり、頬には苦りが強くなってしまう。
軽くなんて気持ちでは、伝えられないわだかまりが、まだあるのだ。
「骨と筋はなんとか繋がったけど、まともに走る事もできない体になっちまった。
開いた頭蓋は塞いだけど、集中力がまるでなくなっちまった。
それ以来あいつの母親、息子の顔見るたびに泣きだすわ暴れるわでどうにもならなくなっちまった」
「……で、家に桔梗さんを残して、別に居を構えたと?」
苦味が伝染してしまったらしい。
もちろんだ、と阿古屋は思う。大体、内容がダウナーすぎる。逆に、これを聞いてへらへら笑っているような奴は、ぶん殴りたくなるくらいだ。
「詳しくは知らねぇけど、新市街のマンションに越したらしいぞ」
「……凄い話ですね」
「いんや。自業自得のバカヤロウの話さ、ん」
そして、全てを救いたがる彼の、最たるアキレス腱の話だ。阿古屋は直接聞いたわけではないが、両親を傷つけた故に、贖罪を込めて迷いなく人を救いに向かえるのだろうと思っている。昔からそうだったと言われればそれまでだが、しかし悲愴感が加わったと、幼馴染は感じている。
お前の傷は?
全てを失った、お前の苦しみは?
親に諦められたお前の悲しみは?
幼馴染の、前髪がうるさい少年はそれでも笑ったまま、誰かのために進んでいく。
それが、今回に限っては座り込んだまま動こうとしないのだ。
……なら、俺らはどうやってお前を救えばいいんだ、ん?
問いが回る。
そんな、螺旋を描く自問の渦に呑まれかけた彼を引き戻したのは、
『マイテスマイテス……あ、チャイム忘れた』
機を逸した、放送用チャイムの間の抜けた調子だった。
「今の、桔梗さんですよね?」
「そうだな……」
話題の人が間抜けをしては、しんみりとした空気が台無しだ。いや、好んで漂わせていたわけではないのだが、それでも腰の折りようはあるだろうと、阿古屋は半目に。
彼の複雑な思いなど無視して、
『あ、大丈夫? それじゃあ』
く、と息を呑む音が。
「あのバカ、なにをする気だ?」
「正直、阿古屋さんにわからないと、僕では……」
だよな、と陰のない苦笑を浮かべると、耳を幼馴染の声に傾ける。
続く言葉など思いもよらないが、だというのに、二の腕が粟立つのを覚えてしまう。
疑問もあるが、納得もある。
『生徒会長から、生徒会役員へお知らせです』
だから、じっと、待ち焦がれた彼の言葉に耳を傾けるのだ。
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