第四話:汀・桔梗は落ちる涙を許さない

1:それを明日のためと頷かせて

 欠けゆく途上にある月は、春霞に怜悧さをぼやかしていた。

 淡く広がる光に頬を塗った阿古屋は、ただただ、夜の空を見上げるばかり。

 腰を下ろす玄関前のステップが尻を冷やしてくるが、少年の胸中は敗北の疲労で満たされており、構っている余力もない。


 そう、自分たちは負けたのだ。

 昨日に助けた影神を追って現れた、内閣特別調査室の常軌を逸した面々に。

 アニェス・旭というメンバー中最強の戦闘力を持つ二人があっさりといなされ、バイクを引っぱり出してきた颪も逃げきれずに隠し玉を失い、雪と自分は最強の人類に手も足も出せずに完封された。

 ハイキックの餌食となったこめかみ脇が、打たれた痛みを思い出す。

 皆も、各々に傷を確かめている最中だろう。


 それでも、なんとか自分の足で立ち上がり、合流し、桔梗の家まで辿りつけた理由は一つしかない。

 桔梗の負傷だ。

 命に別状はなかったが、数度にわたる殴打によって、顔面はひどいことになっていた。敵対者からの連絡で夕霞とアニェスが回収し、その後は彼を送り届けるという名目で、全員が集まってきたのだ。

 だから阿古屋の背後には、茶色の真新しい外壁を持つ、小さな家が建っている。


 八時を回った溝鞍ニュータウンには、ほんの喧騒もない。

 少年が認知できるものは、思考すら止まっている己ばかり。

 と、その背後で、黒色のドアが押しあけられた。

 石の擦過と火の灯る音が、挨拶代わりに。


「出たな、ん。不健全不良少年め。煙草はやめとけ」

「はは。なんだ。なんだ、アコ、わりと元気そうじゃねぇか。もっと大げさにへこんでりゃ、楽しかったのにな」


 吐息は白く、その向こうには花の咲く黒革の眼帯。

 古い付き合いの友人だ。それも男同士の。遠慮など皆無だ。

 少年も、坊主頭を一掻きすると笑い返し、


「梗さんは? どうだ、ん?」

「寝てる。ユッカに付き添われて寝てるよ。あいつが実家から持ってきた、変な薬と包帯でミイラみたいになってたけどな」

「あー……凍沢葬儀が懇意にしてる病院からわけて貰ってた奴だろ、ん? 昔は世話になったな」

「あれだろ。あの、ウサンクセェぐらい効く……お前ら、よく使ってたよな」

「骨折が五日でくっついた時に、もう二度と使わねぇって決めたよ、ん」


 嫌なことを思い出して唇を尖らせれば、タバコをくわえた颪が笑いを吐きだした。

 しかし、と阿古屋は思う。

 バイク屋のせがれは、今回の敗北を苦にする様子がないようだが。しこしことパーツを集めては組み上げてきた愛車が潰されたというのに。

 思いは向こうも同じようで、が、自分とは違い無遠慮に質問してくる。


「なんでだ? なんで、お前はへこんでねぇんだ?」


 まさにこっちのセリフなのだが、とりあえずは答えてやる。


「まあ、あれだ。負けただけだろ?」

「……なんだ。なんだ、俺と同じかよ」


 ただ、敗北しただけだ。

 もっと取り返しのつかないものを、四年前に味わっているから、個の勝敗にこだわらなければ、歯を噛むほどではない。

 故に、個へこだわれば、


「あの二人はどうなってんだ、ん?」

「凄いぞ。ナナと八頭は、凄いことになってやがる。居間のテーブルに突っ伏したまま「あ」と「お」しか言わなくなってた」

「ははあ。負け犬らしい夜の過ごし方だな、ん」

「容赦なしだ。容赦ないな、お前」


 へ、と軽い吐息を見せ、伺うような眼で颪を見上げた。


「行くのか、ん?」

「負けたとはいえ、過程は途上だろ?」

「……梗さんが言ってたのか?」

「ああ。ああ、布石を打つって」

「なら、目を覚ました時、また頭の悪いことを叫びだすだろうな、ん」

「だから、準備をしに行くんだよ」

「そっか」


 真顔で、頼むと頭を下げれば、ため息顔でやめろよと返し、


「リベッツ・イーターって暴走族がいるだろ? 仕事柄知り合いがいてな、そいつらに話を聞いてくるだけさ」


 靴底を鳴らして、足取りを軽く、敷石を踏んで公道へ出る。

 背を向けたままの幼馴染は、


「お前はあいつらを全員、明日の学校に引っ張ってこい」


 全員に負けを引きずらせないため、無理矢理に日常へ引き戻そうというのだろう。

 負けた地点に居座っても何の益がないことを、阿古屋も知っている。

 だから、苦笑でうなずき、


「一番めんどくせぇぞ、ん」

「だからだ。だから、お前に押し付けるんだ」

「ヤロウ……!」


 淡い火を笑みに揺らしながら、彼は月下を往く。

 一人残された少年は、胸中を洗い流すように、大きくため息。

 月を見上げれば、やはり霞んで輪郭がぼやけたまま。

 やがて晴れるさと気楽に呟き、冷たいステップから、ようやく尻を剥がした。

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