10:宵の口が迫るものだから

 表通りではサイレンがやかましいようだ。

 しかし、家々に囲まれた人気のない通りからでは聞きづらく、まるで喧騒から切り取られたかのよう。


 そんな路地裏の静けさを、鈍い打音が揺らしている。

 三枝・和也は己の拳に怒りを込めて、幾度目かの打ち下ろしを放つ。

 喉を掴まれた汀・桔梗が、笑みを以って、その殴打を頬に受けた。


「都合のいいことばかり言って、そのくせ周りに助けてもらってばかりで!」


 二撃が放たれ、


「全てを救うだと⁉  子供が語るユートピアじゃないか! 競争があれば、泣く人間が必ず出るだろう⁉ 彼らをどうやって救う⁉」


 三撃、


「あれか⁉ 社会の仕組みに反旗でも翻すか⁉ なら政治家たちの涙を誰が止めるんだ!」


 全体重を乗せて、四撃目を叩き込む。

 三枝にとって、この少年は不愉快の塊だ。好きなことを口にして、好きなように介入し、望む結果のために生じる被害に関しては考えていない。挙句、言うことは大きいし、介入すれば大げさにしてくるし、被害に関しては甚大だ。


 影神一匹を野放しにすれば、いったいどれだけの命が奪われるものか。

 この少年が、知らないはずがない。四年前にその恐ろしさを目の当たりにし、死にかけた一人なのだから。

 だというのに、彼は女吸血鬼の名を戴く影神を救うなどという。


 負傷ゆえの同情かとも思うが、三枝は、これこそ彼の狂気の部分であることを知っている。

 彼は本気で願っていることを。

 故に、


「なら、僕は世界の仕組みを作り変えますよ」


 殴られ頬が歪んでも笑みを絶やさない。


「誰もが涙を落とさなくて済むように」


 一切の暴力に怯みを見せない。


「僕が死ぬまでには無理だとしても、世界が少しでも正しくなればいいじゃないですか」


 己の命の失われることを恐れない。


「それこそ、影摘みも影神も隔てることなく」


 望むことを諦めない。

 まっすぐに、乱れた長めの前髪から覗く双眸を、笑みにしてぶつけてくる。

 人好きのする、それでいて力のある笑顔だ。

 だから三枝・和也は、


「ふざけるな!」


 気に入らなくて殴打を重ねる。

 何もかも隔てることなく救うということは、天から降り降りる影摘みや地にて貪る影神だけではなく、


「次元すら割りうる魔王に、過去から現在へ侵食する邪神、銀河すら一呑みにする悪鬼! それら全てを救うというのか⁉ ええ⁉」

「彼らが涙を流すというのなら」


 拳を振り下ろす。

 対超自然組織の長である三枝は、あらゆる脅威から人を守るという義務を背負って戦っている。

 だから、人類の脅威ですら救おうとのたまう彼が、気に入らない。

 嘘なら偽善者で、本気なら狂人だ。


 幾度目か、当人同士ですら判然としない一撃に、桔梗の頬が裂けて血が散る。

 捻じれた首が引き戻されれば、少年の目は濁り、夕焼けすら映さない。意識は朦朧とし、気を失うまでそう時間はないだろう。

 それでも口元は、意思強く笑んでいる。

 じっと睨みあい、次第、桔梗のまぶたが開いていられる限界に達した。

 それまで自立していた体から力が抜け、三枝が手を放せば、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。


「本気で言ってるなら、まずは俺を救ってほしいよ」


 肩を落として、殴りすぎて熱を持った拳を二三度振る。冷えた空気をかき回し、その心地よさに嘆息。


 闘争は終了だ。

 気絶する桔梗に背を向ければ、サングラスを外して疲れた垂れ目を春の宵口にさらし、懐からタバコを取り出す。

 と、折よく、協力してくれていた美柳署からの連絡が、インカムに届いた。

 内容は、対象車両がカーブを曲がりきれずに横転炎上、搭乗者二名の姿はなく依然逃走中、とのこと。


 ご苦労様、と礼を告げ、タバコを一服。

 正直な話、瀬見内・颪が未だに二輪の操縦技術を衰えさせていなかったことには驚かされた。隻眼であるハンディがあっても、並みのライダーでは及びも付かない。


 とはいえ、それも車両があっての話だ。

 いくら整備工場の息子とはいえ、ほいほいと手に入るものではない。あの一台だって、廃車をどうにか誤魔化し、使えるパーツをかき集めて出来たものであることは明白だ。

 その一台が消えたということは、彼らが機動力を失ったということ。


「これで隠し玉は潰えたね」


 やれやれ、と呆れ顔で相好を崩せば、本格的に宵が降りる空へ、紫煙を吐き散らす。

 これで、終わり。


「でしょ? マーカラさん」


 振り返れば、桔梗を抱きよせる、ドレスを揺らす猫眼の女が。

 驚きに眉間を広げているが、すぐに艶めく笑みを取り戻し、


「そうね。どうやら、終わりらしいわ」


 少年の痛々しい傷口へ、愛でるように舌を這わせた。


      ※


「どうして?」


 三枝の問いは当然だと、彼女も思う。

 勝算もなく敵の前に現れるのは、愚行にすぎない。いずれは追い込まれるとしても、黙って逃げていれば、僅かながら捕まる可能性を落とすことができるのだから。

 しかし、マーカラには理がある。


「ウッチーが詰んだって言ってたからね。素直に、出てきたわけよ」


 色濃く笑い、舌が桔梗の唇をなぞる。染めていた血を拭い、味わい、嚥下すると、


「はい、ストップストップ。まだ空明るいんすから、自重しなさい」

「あら? もしかして妬いてる?」

「これ以上魔力を補給する気なら本気でいきます、っていう忠告っすよ」

「怖いわねぇ」


 おどけて、しかしそれ以上は舌を伸ばすことはしない。

 代わりに、桔梗を抱いたままで、


「ちょっと相談があってね」

「へぇ?」


 交渉を開始。

 三枝の目は、胡散臭げで興味深げ。

 マーカラは、口端を頬に深く埋め込めば、


「この子らに恨みはないんでしょ?」

「……まあ。ただの高校生ですしね」


 奥歯にものが挟まっているような物言いだが、建前では言葉の通りだろう。


「なら、私がおとなしくついていくから、今日の彼らの行動は不問にしてあげて」

「その要求は、勝ち戦のうちらに旨みがないんすけど?」

「嘘ね。なんなら、人の一人でも喰って見せるけれど?」


 鋭い犬歯を見せつけ、桔梗の頬に近づければ、


「あーわかりました、わかりました」


 桔梗と彼女の約束を知らないであろう青年は、面倒臭いという風に両手を振ってみせる。


「それでいきましょ。じゃあ、お嬢さん、エスコートはお任せを」

「ふふ、ありがと。けど、ちょっと待って?」


 疑問する三枝を待たせ、マーカラは桔梗の首筋に唇を寄せた。

 柔らかい感触と汗の香りを楽しむと、顎を開き、甘く優しく歯を立てる。

 数秒を経て、唾液を引きながら口を離せば、そこには歯型がはっきりと。


「これが私にできる、助けてもらったお礼よ。些細なものだけどね」


 寂しげに呟くと、力ない痩躯を、そっとアスファルトへ横たえた。

 ドレスの裾を揺らしながら立ち上がれば、腕を組んで待つ、スーツの青年へ歩み寄り、


「じゃあ、さよなら」


 途中一度だけ振り返り、別れを告げた。

 奪うことしか知らなかった自分へ、与えられる心地よさを教えてくれた少年に。

 そうして美柳は、夜を迎える。

 人が立つために伸ばし続けた、ありとあらゆる影を呑み込んで。


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