9:望み、折れず、手を伸ばす
「キョウさん、大丈夫かしら」
「三枝さんがいるからな。三枝さんがいりゃ大丈夫さ。人死が出て一番困るのは、あの人だからな」
だから気にするな、と言い捨てる様は、気にしていない人間のものではない。
緑に塗られたオフロードバイクは、タンデムをドレスの女に代えて、夕暮れの駅前商店街を疾走していた。
たなびく柔らかな金髪を手で押さえたマーカラは、姿勢を保持するために片目の操縦者に枝垂れかかり、後ろに流れていく広葉樹の並木を見るともなしに眺めおくる。
帰宅ラッシュの直前。営業回りの車が減って、台風の目のような穏やかさだ。バイクの排気音が呑まれるほどに。
「詰んだって言うわりに、悠々走ってるのね、ウッチー」
「詰んだからだよ。詰んだから悠々なのさ」
どこまで逃げても一緒だから、と笑う颪に、影神は首を傾げてみせる。
「アニェスと旭ってのは、うちの最強コンビなんだよ。それが瞬殺されて追いつかれたんじゃ、梗さん一人でどうにかなるわけがねぇ」
「すぐにも、サエグサは追いついてくるって?」
「可愛いな。自分が追いかけるなら可愛いもんだ。反対車線見てみな」
言われて顔を上げれば、中央分離帯の向こうに白と黒のツートンカラーが三つ。
続々とすれ違う警察車両は、窓からこちらを見つけては無線に飛びつくを繰り返していた。
「モテモテね」
違いないという軽薄な声が返るから、
警察の力を、実力で排除し続けていた影神は、はっきりとわかるわけではない。が、その組織力は長大であるのはよく知っている。
社会性を持ち、それを否定しえる能力を持たない人間が、勝てる相手ではない。
「わかってるさ。こうなったら逃げきれないことは、わかってる」
「じゃあ?」
「言ったろ? 布石を打つだけだって、言ったろ。それしかできねぇんだ」
負けを認める発言は最初からだ。が、言葉には戦いの最中に編まれる単語が織り交ざる。
だから、マーカラが抱くのは疑問。
「布石って?」
少年は肩越しに振り返ると、鋭い隻眼を弓にしならせる。
「汀・桔梗は望むことを諦めない、だ」
目元しか見えない笑顔が、赤色灯に照らされた。
光を追えば、背後から迫る二台のパトカーが。
スピーカーが停車を勧告するが、颪は軽やかに無視。さらに加速を見せる。
己の影がいずれ夜に呑まれるのを、初対面の二人はよく自覚している。
だから、黒が空を塗る速さに追いすがるべく、アクセルを強く捻じ込んだ。
※
振りぬいた拳の手応えは会心。
食いしばり耐える抵抗があったが、半ばで崩れ、完全に威力が通った。
一番に驚いたのは、阿古屋本人だ。
顎を捉えたとはいえ。
全体重を預けたとはいえ。
カウンターだったとはいえ。
「……初めてだ、ん」
最強たる‘あの’木積・剛が、腰を落とす姿を見ることになるなど。
四年前は、どんな一撃も通用しなかった。人類であることを半ば疑うほどの強度を持った肉体に、しかし、今日は傷を負わすに至った。
少年は、夜の濃くなるグラウンドで、その意味を噛み締める。
自分の修練が、間違いではなかったということ。
「ならここで完全回答にしちまうぞ! ん!」
緩んだ五指を握りなおすと、ステップインしながら右フックを放った。
きれいに頬を振り抜き、反動で左のフックへ。
脳が揺れたか、巨体が仰け反って、瞳が濁り泳ぐ。
滑り落ちるテンガロンが、男の定まらない目元を隠すと、
「こっちは打ち止めだ!」
これ以上にない右ストレートが、やはり顎を、正面から打ち抜いた。
「……これが最強か。ん?」
阿古屋は、どうしようもないと苦く笑うと、汗が冷え切ったのを自覚。
「驚いた。記憶が飛んでやがる」
衝撃で舞ったテンガロンの下から現れた男の瞳は、まっすぐに阿古屋を捉えていた。
「どうせなら、そのまま寝ていてくださいよ。ん?」
「バカヤロウ。百年はえーよ」
笑う双眸の強い輝きを、少年は見逃さない。
知っている光だからだ。
IHの決勝で当たった、前年度王者が同じ目をしていた。
つまり、勝つという決意の輝き。
だというのに、こちらはどうだ。
乳酸の溜まりすぎた両腕は、もう僅かの間も上がっていることなどできはしないと、ファイティングポーズを取ることすら拒否している。
「チクショウ、ん。勝てると思ったのに」
「は! まあ、黙って寝ておけ。で、起きてから禿げるまで悔しがりな」
「なんて大人げのない発言だ、ん」
呆れたように吐き捨てると、空手家は獰猛に笑い、スタンスを大きく取る。
天才空手少年と喧嘩をしていた阿古屋には、相手の狙いがよくわかる。
威力を増すために、腰を回す気だ。
……やっぱり大人げねぇ。
半笑いで毒づくと、きれいな上段回し蹴りに、少年の意識は完全に刈り取られてしまった。
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