8:あなたと私の『本領』

 スナップを効かせたジャブが、風を切る。

 鋭いステップが、グラウンドに円を刻む。

 裸拳とは思えない破音を幾重にも響かせ、少年は巨人の前進を押しとどめては、かわす。


 最強の人類に対して阿古屋が選択した戦術は、ボクサーのセオリーである「左による制圧」だった。

 ジャブを連打し、相手の周囲に円を描くように足を捌いていく。

 受ける側は、速度差のために正面での戦闘を許されず、不自然な姿勢で打突を放つことになる。が、そんなものでは、IH王者の動体視力を越えることはない。

 致死を唸らせる拳は、しかし圧倒的速度差で、全て紙一重のスウェーでいなされ、そのたびに、緊張に浮かぶ汗が、拳圧で吹き散らされていく。


 並の高校生ボクサーなら、三人はKOしているほどの威力と回数を叩きこんでいるというのに‘あの’木積はいっこうに構う様子を見せない。

 涼しげな顔で、全弾ヒットを許している。


「曲りなりにもヘビー級のパンチだぞ! ん⁉ ちょっとは揺れろよ!」

「うるせぇ! 蚊トンボみてぇにふらふらしやがって!」


 空手の一撃が、しかしステップバックで宙を切る。

 その出入りで、ワンツーを一セット放り込んではみたが、結果は変わらず。


 ……さすがに最強だ。


 自分にもそんな時期はあったが、時を経て、諦めた称号だ。

 阿古屋は小さな頃から体格に恵まれ、喧嘩に負けることはなかった。公園の使用権を巡る些細な衝突が最初だったと思うが、自然、子供特有の独善的な上下関係を強制する年上と衝突し、当時の仲間らも彼の腕っ節に頼る者が増えていった。


 無論、そうして火種を作り続ければ、炎上も早い。

 小等部に入学してすぐは、喧嘩を繰り返し担任に叱られる、という毎日だった。

 そうして負けないまま毎日を過ごすなかで、少年は一つの疑問に突き当たる。

 強くあるとは。

 最強であった阿古屋は、その努力を知らなかった。暴力は「勝ち」「得る」ための手段で、しかし合法ではない。

 なら、非合法に頼ってきた自分には、何が残る?


 そこに何もないと教えてくれたのは、空手道場に通い始めた幼馴染だった。

 喧嘩を止めにきた彼と口論になり、殴り合いに。

 結果は、桔梗の圧勝。その凄惨さは、本来の相手が怯えて逃げだすほど。

 血を噛みながら味わった最初の敗北の感想は「空手つえぇ」。

 モチベーションを持ち、自己鍛錬により暴力を磨き、威力を競い合うアスリートの強さを実感した瞬間だ。


 そして、強くなる理由を得た瞬間でもある。

 過去を積み重ね、明日を備えるためだ。

 後に聞くと、桔梗は阿古屋のために、道場に通い始めたらしい。

 ならば、と自分はボクシングジムに通うようになった。空手も悩んだが、同じ道を歩いては桔梗に追いつけないと思った故の選択だ。そして、確信をもって、少年は最強の看板を下ろした。

 だから阿古屋は、現役に対して強い興味を抱く。


「最強ってのは、やっぱり気分はいいものっすか? ん?」


 拳に乗る問いに、木積は眉をひそめた。

 止まらないジャブの連打を押すように進み、やはり拳を振るいながら、


「どうだかな。まあ、見晴らしはいいもんだが」

「が?」

「それまでがむしゃらに上ってきた山に、突然終わりを告げられるんだ。途方に暮れちまうぞ? 俺はまだまだ登っていたかったのに、ってな」

「モチベーションはあっても、相手がいないって話? ん?」

「まあ、そういうこった」


 肩口に伸びた空手の突きに合わせてダッキング、あえて相手の距離まで飛びこんでのショートアッパー。

 が、硬い腹筋に阻まれ、再び手数で突き放すと、


「しかし、可哀想っすね、ん」

「あ? 憐れまれる理由はねぇぞ?」

「雪にとっての木積さんのように、修錬を試す相手がいねぇのに? ん?」


 木積の目が、深く笑む。まるで、諦観を思い出したかのように。

 大人は鋭く息をつくと、


「子供に何がわかるんだよ」


 諦めの笑みで、少年の瞬速の左を、腕全体で打ち払った。

 回し受けだ。


「っ⁉」


 巻き込まれた腕に引き込まれ、阿古屋は前のめりに。

 結果を予測し、全身が総毛立つ。

 見えるのは、木積が正拳を打ちこむために、腰に溜めたところ。

 バランスを崩された今、唯一の武器だった速度が、この限りにおいてゼロということ。

 しかし、動体視力と速度感の差は生きている。


 ……いけるか⁉


 即座、足首から腰を経て、肩を回って、威力を右に。

 威力を発揮したのは、両者とも同時。

 聖拳は、少年のヘッドスリップで頬を擦るに留まり、


「どうだ⁉ ん⁉」


 苦し紛れのロングフックは、空手家の顎を貫くに足りた。


      ※


「冗談! 冗談じゃねぇぞ!」


 生活のために使われる小路を、颪はフルスロットルで駆け抜けていく。

 ただでさえ狭いのに商店の裏口が並ぶ通りだから、青いポリバケツが並び、さまざまな産業廃棄物が「とりあえず」の名目で積み重ねられている。

 隙間を縫うように、二人と一匹を乗せたオフロードバイクが右に左に。


 その彼らを追うのは、車両ではなく人影だった。

 すでに半ば以上が夜に沈む、建物に囲まれた小路を駆けるのは、黒スーツにサングラスの青年。両の足に札を張っており、おそらくは超常的な脚力の根源であろう。


「相変わらず! 相変わらず、出鱈目な人だな!」

「片目でバイク転がす高校生に言われたくないよ!」


 そのへんはお互いさまだ。

 けれど、このままではどうしようもない。目的地点である自宅から、どんどんと遠ざかってしまっている。

 さて次策はどうする、の自問に、予想外の声が。


「ウッチー!」

「どうした⁉ どうした梗さん!」

「マズイ! 非常にマズイよ!」


 密度の濃い焦燥が、タンデムから上がる。

 颪は、心胆の温度低下を自覚。

 状況は把握していたつもりだが、見落としがあったか?

 注意を周辺に散らしながら、桔梗の報告を待っていると、


「さ、さむい……」


 震えが応えた。

 風を直接受けるバイクは、体感温度を著しく下げる。夏場でも、半袖一枚程度では時に寒さを感じるほどだ。

 そして、今は春の夕暮れの日陰。

 そのうえ桔梗は、なぜか知らないが上半身裸。いつもの流れだと、アニェス辺りにやられたのだろうが。


「我慢だ! 我慢しろ!」

「あ……れ? ルーベンスの絵が見えてきた……」

「ダメだ! 梗さん、ダメだ! それは日本で一番有名な凍死コースだぞ!」


 猫が頬を舐めても「パ」で始まる犬の名前を呟くばかり。

 上着を貸そうにもライダースーツで来てしまったから、颪には手の打ちようがない。


「じゃあ、手早く終わらせよう」


 こちらのてんやわんやを追いかける三枝が、呆れと苦笑いを全開に。

 バックミラーに映る彼を窺えば携帯端末を操作、


「‘召喚:俺の愉快な仲間たち(最新式)’!」


 そのディスプレイが発光を強めると同時に、


「ウッチー! 前、前!」

「ん? んん⁉」


 前方の上空、家々の隙間を埋めるように、巨大なにやけ顔が現れた。

 と思うと、ギロチンの刃のごとく落下し、アスファルトを砕きながら道を塞ぐ。


「なんだありゃ!」

「妖怪つるべ落とし。気をつけてね。機嫌が悪いと、人食べるから」

「わかるか! 機嫌の良い悪いなんざ、わかんねぇよ!」


 距離と速度は、停止に間に合わない。

 ならば、速度を増して乗り切るしかないだろうが、一歩間違えばクラッシュ。うまくいったとしても、この荷重では登り切れるか怪しいところだ。

 どうする、と喉を鳴らせば、


「じゃあ、頼むよ?」


 桔梗の笑う声が聞こえ、ヘルメットに何かを置かれた。

 心配そうな鳴き声を上げる、影神だった。

 颪は、幼馴染の意図を全て悟るから、


「だがな。だが、詰んでるぞ?」

「だったら布石を打つだけさ。それは僕にはできないから、ウッチーに頼むんだ」

「……わかった」


 重く頷き、スロットルを開いた。

 狭路を、オフロードバイクは加速。

 Gが搭乗者全員にかかり、障害を突破する下準備を作っていく。

 暴挙の選択に、三枝が驚愕し、


「乗り越えるつもり⁉ 一か八かじゃないか!」

「違う、三枝さん! これは乗るか反るかだよ!」

「⁉ 正気⁉」


 腰に回っていた桔梗の手が解かれた。同時、背の熱が一瞬で奪われ、バイクの加速度が一段増す。


「僕が反ればウッチーが乗る! ほらテッパンだ!」

「うわー!」


 吹き飛ばされた桔梗の体は、まっすぐに三枝へ。

 幼馴染は事を達した。

 だから、今度は自分の番だ。


「本領だ! 悪路は俺の本領だからな!」


 タイヤが、巨大なにやけ顔の頬に乗った。

 そのまま轢痕を線引きながら、鼻脇を駆け昇り、眉間を突破し、禿頭を加速。

 空を割るような妖怪の大激怒を尻目に、瀬見内・颪は夕暮れの中を、ゆっくりと降下していった。

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