7:あの日々が、あなたの背を支える理由なのだ

 高い校舎に囲まれる中庭は、夜の落ち込みが早い。

 空の橙だけが明かりであり、彼女たちの影はすでに曖昧だ。


 重い足で土を踏んだ夕霞は、疲労の体を引きずるように、伏せる友人たちのもとへ。

 途中、切り落とされた太い枝や抉れた地面を越え、壁面に刻まれた真空の斬撃痕に、深く吐息。

 その原因である巨人は仰向けで、呆然と青と赤が混じる空を見上げていた。

 敗北は呑み込める。言っては悪いが、下馬評通りだ。


 が、見せ付けられた実力差は、そういうわけにいかないだろう。

 それは、相棒の小人も同じ。

 両手で土を掴み、小刻みに震えて悔しがっている。


「汀くんという枷が外れたのは、そちらだけじゃないということね」


 握っていた銃をしまいながら、同情を浮かべた中居・しずるが右手に歩み寄ってきた。

 桔梗を巻き込む心配がなくなったアニェスと旭は、文字通り、全力を叩き込んだ。

 絵筆で加重加速させ、刃の真空をありったけに強めて。

 結果が中庭の惨状である。


 それでも、三枝には傷ひとつつけられず、影摘みと隷が障泥に守られていることを知る彼は、手加減なく御雷光を招いた。

 神の一撃に撃たれ、二人はそのまま敗北となる。

 夕霞はなお歩を進め、ぐ、と、ぎ、の連続音を垂れ流す旭の前でしゃがみこむと、柔らかくしかし力強く、両脇に手を差し込む。


 小さな人は体を踏ん張らせてこらえるが、やがて力負けし、豊かな胸に抱きかかえられた。

 持ち前の不敵が今は見る影もなく、汗と土と涙でくしゃくしゃになった顔は、見られることを嫌って伏し逸らされてしまっている。

 旭の涙の理由を、幼馴染の夕霞は知っている。


「今は涙を落としていいんですよ。梗くんも見ていないんですから」

「っっあ――ぁっ!」


 堪える濁りが消えて、少女の声は、あ、の連続となった。

 腰に回された、土まみれの小さな手の力に、彼女の悔しさが知れる。

 怪訝な顔をするのは、一人部外者の大人。


「実力差から、結果は最初からわかっていたでしょう? なぜ、そんなに悔しがるの?」

「否。こちらの目的は時間稼ぎだった」


 夕霞に代わって答えたのは、軋む上半身を力任せに起こしたアニェスだった。


「だから、あの速攻を許したのは大敗北だ。特に、アサヒにとっては」

「どういうこと?」

「私は聞いただけだ。ユウカのほうが詳しい」


 問うような目が向けられる。

 だから、胸元に隠れる本人に、いい? と訊ね、かすかな頷きが返るのを待ってから口をひらく。


「八頭っちゃんは、梗くんに恩を返したいんです」

「恩?」

「この子が、今も筆を握って絵を描いていられるのは、梗くんが頑張ったからなんです」


      ※


 小等部の頃、自分が旭の名を知ったのは、やはり桔梗の口からだった。


 ……一学年下に、すごく絵の上手い女の子がいる。


 廊下に張られた「美柳美術コンクール・小学生の部」で特賞を取った、小学生離れした風景画を指差し、なにを勘違いしたのか、サインを貰おうと言い出したのだ。

 迫る桔梗の顎へ、カチアゲ式ドロップキックを見舞った旭の勇姿は、今でもありありと思い出せる。


 それから後に学年の有名人同士は、女性の胸部への興味で意気投合し、周囲の残念な眼差しをものともせずに、緊密な友人関係を築いていくこととなった。

 そして、桔梗が十二歳、旭が十一歳の秋。

 三年連続特賞の記録を目指してコンクールに向かっていたのだが、昔から絵を描くことに反対していた旭の両親が、自らの地位をわずかに使って、イベント自体に圧力をかけてきた。


『八頭・旭の作品を予備選考で落とせ』


 そんな内密の話を偶然聞いたのが、家柄から、さまざまな場所に出入りしていた夕霞で、無論桔梗にも相談した。

 彼は「任せろ」と笑ったが、数日後に旭の力作は忽然と美術室から消え去り、行方不明となってしまった。誰かのいたずらだろうということで、桔梗が先頭になって校内をくまなく探したのだが結局出てこず、事情を漏れ聞いていた旭は諦め顔で「もういい」と、以後数日間美術室に引きこもってしまっていた。


 彼女の絵は、意外な場所で意外な形で発見されることになる。

 コンクールの展示会で、特賞の札と、汀・桔梗名義の名義を下げていたのだ。

 友人連中が目を丸くするなか、得意顔の盗人が報道陣に囲まれて現れた。

 無論全員、友人連中ばかりでなく学内のほぼ全員で会場外に引きずり出し、ぼこぼこにしながら説教をくれてやることに。最後は雪の回し蹴りで動かなくなったのも、今ではいい思い出だ。


 この騒動で、作品が旭のものであると判明し、失格となってしまった。

 が、翌朝の地元紙には「天才の帰還」「幻の三連覇」などの見出しで八頭・旭を取り上げたものだから、彼女の父親も無下にはできなくなり、半ば黙認の形となったのだ。


      ※


「望むことを、力づくで全肯定してもらった八頭っちゃんは、梗くんの望むことを力で叶えてあげられるようにとしてきたんですよ」


 絵で金銭を得ることも。

 アニェスと共に、影罪と戦い続けることも。

 静かに耳を傾けていた中居が納得に首肯し、


「今回は、その絶好の機会だったわけね」

「四年前はまだ梗くんすごかったですから、そういう意味では今回が初めてで。だから、意気込んでいたし、その分悔しくてたまらないんですよ」


 肯定なのか、抱きつく腕が力を増すから、安心させるように、厚い黒髪をゆっくりと撫でてやる。

 すると、意外にも内閣特別調査室から問いかけが。


「なら、あなたたちは三枝をどう見る?」

「はい?」


 質問の意図を量りかねていると、アニェスが直情振りを発揮。


「女好きの盗聴魔だ。早々に去勢して、警察に突き出すべきだと思う」

「ちょっと、アニェス!」

「あら、同じ意見のようで」

「え、しずるさん⁉」


 自分の味方がいないことを知って二人の間でおろおろしていると、影摘みが言葉を続け、


「その女好きが、どうして桔梗を追いかけた? 普段は興味のないような顔をしていたが」

 その問いの意図はわかった。

 三枝・和也が走るほどの理由を、汀・桔梗が持っているのか、ということ。

 答える声は、おそらく、と前置きし、


「羨ましい、のかもしれないわね」

「え?」

「大きな夢を持ち、多くの理解者がおり、のびのびと思う理想を振り回す彼の姿が」

「ですけど、国が後ろ盾なんですから、三枝さんのほうが……」


 より、大きな力を振るえるに違いない。

 疑問に、中居は夕霞が唱えた、桔梗の言葉で答える。


「私たちの翼は自由に飛べるほど大きくはない、飛ぶ空は王者を許せるほど狭くはない……まさに言うとおり」


 己の環境を鑑みての嘆息か。

 少女にはわからない領域だ。自分たちではままならないことが多すぎるし、見える距離も手の届く長さも、短くて仕方がないと思うことがしばしばだ。

 そんな自問が、顔色に出てしまっただろうか。

 中居がくすりと笑い、


「我々の周りを囲むのは、同じ方向を向いているだけの我々の敵ばかり……だから、同じステージに上がられると、自分と比べてしまうんじゃないかしら? 三枝・和也を囲む我々も、決して彼の賛同者ではないしね」


 そうでないうちは、なるべく無視を決め込んでいるということか。

 アニェスが「是」と答えるのを聞きながら、夕霞は笑みに影を差す。


 ……けれど、私たちは負けてしまいましたよ。


 確かめれば、先駆けた夜の風が胸に沁みこんでくるのを、堪えきれなくなる。

 自分には、沈むように泣き暮れる友を抱き寄せ、願うように皆の帰りを待つしかないのだから。

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