6:戦場の意向

 夕日を貫くように、少女の前蹴りが放たれた。


 全体重を乗せたこれ以上ない一撃が、前進を続けていた木積にカウンターで突き刺さる。

 みぞおちが鈍く軋み、巨体が初めて揺らいだ。

 見つめていた阿古屋は、お、と期待を込める。

 が、最強の人類は、ただそれだけ。


 踏み出すと、前蹴りで無防備になった雪へ、軌道の低いフックをワンツー。

 暴風に捕らえられた雪の腹が悲鳴を上げ、腕がだらりと下がる。


「敬意を払っての二発だ」


 木積は、膝から崩れる彼女の体を受け止め、グラウンドに寝かせると吐息し、


「後輩の女の子がやられてるってのに、見てるだけか? お、阿古屋?」

「いやいやいや。そいつ、俺より強いからな、ん」


 向き直られ、名を呼びかけられ、軽薄に笑い返す。

 強い、というのは事実だ。木積が言ったとおり『障泥』と呼ばれる、銃弾すら弾く魔力壁を持つ影罪に対して単騎で討てるとなれば、その力は並の人間をはるかに超える。

 阿古屋にできることといえば、少女の邪魔にならないようにするだけだ。

 だが、傍観を決め込んだのは、自分が弱いせいばかりでもなく、


「あいつは負け方を知ってる。ん。その味わい方もな」

「テメェの出る幕はなかったってか?」

「だろ? 勝っても負けても、独力でなければ意味合いが鈍るんだ、その手の輩は」

「へ。どいつもこいつも、若ぇなあ」


 失敗を、是と言えるうちは、そう言われても仕方がないと苦笑する。

 だから少年も、


「けどまあ、ナナがそれで俺が無傷だと、ちょっと具合が悪い」


 若さを盾に、敗北を選択できる。

 そうこなくちゃ、と笑う大人に、見せつけるように軽く肩を回した。


「見せてやるよ、IHチャンピオンの拳を」


 頬の朱は、夕日のせいか、果たして絶対的な強者への挑戦に胸が躍るためか。


      ※


 フルフェイスヘルメットのバイザーをあげると、風の壁に瞳を押された。

 懐かしい感覚だ。

 今でこそ右目は眼帯に覆われてしまっているが、それでも、後ろへ流れていく空気に体温を奪われる心地よさを、体は覚えている。


 静かな興奮を胸に隠しながら、颪のまたがるバイクは裏門を抜けて幹線道へ。

 このまま旧市街地を貫く県道を下って、目指すのは、とりあえず自宅の工場だ。

 タンデムシートでは、こちらの腰に片手を回した半裸の桔梗が、


「うひゃー! ほら、マーさん早いでしょ!」


 大はしゃぎで、流れる街路樹を指差す。黒猫に化けた影神は、姿通りののんきな鳴き声を返した。

 どうにも締まらないが、相変わらずと言えばその通り。

 最初に彼をタンデムに乗せたのは、もう十年も前だ。


 同じクラスだった桔梗は当時からの人気者で、片や自分はレースの関係で休みが多く孤立しがちだった。


 ……自分にはバイクがあるし、それが一番面白い。


 そんな思いで過ごしていたから、日々は寂しくはなかった。だから、ある日の昼休み、笑ってばかりの人気者が突然「乗せてくれ」とせがんできた時は、頑なに拒絶したものだ。

 それ以上しつこくせがむことはなく、彼とはそれがきっかけで自然と友人付き合いが始まっていった。何かあれば声をかけてくれたし、こちらも、近所でレースがある時は見にこいと誘いもした。

 不思議な話で、彼が応援に駆けつけると、大会で負けることがなかった。

 そのためか最後のほうでは、地方で開かれる平日の大会に、颪の父親が桔梗を呼び続けてしまい母親に怒られる、という絵も頻繁に見られることに。

 全国で一番大きな大会にも桔梗は同伴しており、優勝を果たした際に、ウイニングランで彼を立ち乗りさせたのが、タンデムの最初。


 あれから十年。

 今の桔梗の体は、異様なほど軽く感じられる。

 颪は、理由を知っている。

 四年前の影神を相手にしたときに、胸から肩にかけての筋肉を大きく抉られたためだ。

 左右の不均衡が運動全般を絶望的なものとし、筋肉トレーニングですら回数をこなすことは困難となった。

 維持が精一杯であり、衰えるばかりの体だ。


 事故で瞳と夢を失った、かつての王者は願う。

 自分がバイク好きだということを、「乗る」側から「乗せる」側に生きるという道があることを、気づかせてくれた汀・桔梗に、何かできることはないだろうか、と。

 道具は、優劣を問わずに、人に力をくれる。


「梗さん。早く免許取れよ、梗さんさ」


 颪の願いは、同い年の恩人に、誰にも負けない足を作ってやることだ。


「いやあ、なかなか試験が難しくてさ」


 風に逆らって、桔梗の情けない言葉が届くから、颪は苦笑。

 緩やかなカーブを越え、駅前商店街の入り口へ。


「けどさ、ウッチー無免だよね?」

「いまさら。梗さん、いまさらだぜ」


 重度の視覚障害であるため、颪は運転免許の所持ができない。

 大体、タンデムシートもノーヘルなのだから、現状このオフロードバイクは違法の塊だ。


「隠し玉だ。だからこそ、隠し玉になれたんだろ。まあ、前科は付くけど、俺の場合は罰金だけだからな」


 これでもバイトしてるからな、と口端を持ち上げるが、フルフェイスではどれだけ通じたものやら。

 バイクは十字路を折れ、夕日に輝く商店街のメインストリートを、軽快に疾駆。

 嗅ぎ慣れた日常の熱気は、区画を過ぎるごとに新しくなる。それだけ、通り全体が活気に満ちているのだ。

 信号が赤に変わるから、颪はゆっくりと速度を落とした。


「これからどうするの?」

「俺の家だ。お前を俺の家に置いて、その影神を、俺しか知らない隠れ家に連れて行く」

「え? ちょ、え⁉ ウッチー⁉」

「なんだ?」

「隠れ家に女の子連れ込むって……顔面とあいまって、完全に犯罪者じゃないか!」

「うるせぇ!」


 歩行者用の青が点滅を始めると同時、颪が桔梗の側頭部を殴る。


「そのまま梗さんたちは、マーカラの行方を材料に三枝さんと交渉してくれ」

「マーさん、気をつけてね? 変なことされたら「火事だー」って叫ぶんだよ?」

「にゃー」

「聞けよ! 人の話はちゃんと聞け! 猫も、今の答え「イエス」だったろ⁉ するかよ、影神相手に! 殺されちまう!」

「マーさん。ウッチーはツンデレだから、今のはフラグだよ?」

「にゃー」

「人に変な属性つけんじゃねぇ! 猫も了解してんな!」


 信号が青になり、流れが戻る。

 スロットルを握りこみ、ゆるゆると発進。

 加速までのわずかな時間に、颪は、不当な中傷に折られた腰を取り戻す。


「で交渉がまとまったところで、別の奴がそいつしか知らない場所に連れていって。こうやって手間をかけさせて、三枝さんにめんどくせぇから手を引こうと思わせるのが目的だ」

「ははあ、なるほど。考えてるなあ」

「ほんと。確かに時間がかかるとまずいんだよなあ」

「ですよねぇ。三枝さんたち、すげー多忙ですから」


 ねぇ、と語りかけていた桔梗は、完璧な二度見で目を剥く。


「三枝さん⁉」

「や」


 いつからか隣を併走していた三枝・和也は、車でもバイクでもない。

 二本の足のみだ。

 おそらく術式だろうが、驚愕はそこではない。

 彼の足止めを、アニェスと旭、夕霞が引き受けたはずだ。

 それも、桔梗がいなくなり、全力でかかれるはずの。

 だというのに、彼はすでにこちらに追いついており、


「早すぎるだろ」


 颪は苦く呟き、振り切るためにタイヤをアスファルトに噛み付かせ、左へ鋭角のロール。

雑多が渦巻く小路に、アクセルを弛めずに飛び込んだ。

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