5:わからない、だから
厚い胸板を、少女の小さな拳が叩く。
渾身の正拳突きだ。
が、木積は小揺るぎもしない。
……体重が軽すぎる。
確かに、一撃は骨まで響いてくる。同じ錬度であれば、百キロを超す相手にも負けることはないだろう。
IH王者、では済まない強度を持つ空手家、というのが人類最強の男の感想だ。
だが、鍛えてきた時間と密度の差が、如実に出てしまっている。
今まで彼女が放った二十を超える打突は、意味を得るほどには抜けてこないのだ。
……だが、ま、強くはなっている。
四年前に比べれば、威力速度ともに桁違い。
「さすが、アニェスと一緒に、影罪を殴ってただけはあるな」
大きな絆創膏を頬に張りつけた少女は、据えたような三白眼で驚く。
「知っていたのか?」
「遠巻きに何度か見たことがある。噂も聞いてるしな」
「どんなんだよ」
「二年前くらいに影罪を単騎で倒した。その手の連中の間じゃ、ちょっとした有名人だ」
「全然嬉しくねぇ」
不満を表すように、膝蹴りを鳩尾へ。
が、まったく効かず、四、五歩を下がり、
「あんたには勝ててねぇんだ」
沈みゆく夕陽のなかで、眩しそうに目を細めると、口端を持ち上げてみせる。
笑み。
曇りない、爽やかな。
なぜ? と木積が眉をひそめれば、
「俺は幸せだ」
意外な言葉が。
木積が、目を驚きに見開く番だ。
「どうした? まだ殴ってねぇぞ?」
「正気だ。失礼な奴だな。旭や梗さんと一緒にするな」
「ったってなぁ……」
きもちわりぃよ、はさすがに言葉にはしなかったが。
しかし、幸せとは?
「かつての汀・桔梗を壁として、最強と呼ばれる木積・剛を相手に成果を試せる。これほどの贅沢が、あるか?」
なるほど、高みを目指すには最良の環境だろう。
越えられない目標は、鍛錬の永遠を約束してくれる。
成長の終着は己が納得した時点であるが、先駆者を肌で知っている者は、そこに手が届くことを信じられるのだから。
過去に神童の桔梗を据え、現在に最強の木積を置く。
「じゃあ、もう、昔の思い出はいらねぇんじゃねぇか?」
本気ではない。
が、理ではある。
七目・雪が自分に勝利する可能性は非常に低いのならば、越えられない壁は一人で十分であろう、と。
けれど、中年は答えを知るから、冗談として訊ねたにすぎない。
「まさか。梗さんが無事なら、今頃‘あの’と呼ばれていたはずだからな」
木積は肩が揺れるのを堪えきれない。
刷り込みにも似た信頼をてらいなく微笑む雪の頬は、ひどく穏やかだ。
「それが、お前の拳を握る理由か?」
つまり、汀・桔梗の強さを証明するために。
少女は夕日に輪郭の影を強くしながら、はっきりと頷いてみせる。
木積も頷きを返し、
「なら、礼儀を尽くすぞ」
拳を握って、開いた間合いを埋めようと、大股の一歩で前に。
※
吹っ飛んできた桔梗の体を受け止めたのは、旭を放流したマーカラだった。
さすがに咄嗟の出来事だったので、バランスを崩し、二人はもつれながら倒れこむ。
下になった影神は、腕にかかる少年の軽さにまず驚き、手の平へ伝わる呼吸の荒さに呆れ果てた。
予想が正しければ、
「キョウさん、血霧の中を突っ込んできたでしょ?」
「ちょっとだけね」
本当にこの子は。
昨日、捕食者である自分へ、平然と身を任せてきた時から思ってはいた。
危険に対し、恐怖を抱かないのだ。笑顔のまま、己の成すことを果たすべく、どこにだって足を踏み入れる。
結果、
「これで振り出しだね」
額に、ぴたりと銃口を突きつけられる、という事態になってしまうのだ。
沈みかけた夕日のなかで、輪郭をぼやかせた三枝が問う。
「で? 繰り返しになるけど、君はここを、どうやって切り抜ける?」
本当にそうだ。
こちらの戦力は、総合しても三枝に届くかどうか。
せめて自分の魔力が十分に回復していれば、なんならアニェスと旭がコンビであることを最初から知っていれば。
次善にたりた手は次々に浮かぶのだが、過去を取り戻せるはずもない。
期待を込めて、桔梗を抱く腕に力を込めると、
「僕にはわからないよ」
三枝の両肩が幻滅のために落ちた。
けれどマーカラは、彼と内閣特別調査室を除く、その場にいた全員の面持ちが強くなったのを見逃さない。
知っているのだ。彼が、自分のことを信じてくれている彼が、次に何を口にするのかを。
「皆が僕に教えてくれるんだ」
だから、二四九CCの咆哮がそれに応える。
「バイク?」
特有の甲高いエキゾーストに振り返る三枝。裏門方向に向く彼の目を追えば、中庭の土を抉りながら、緑に塗装されたオフロードバイクが突っ込んできている。
跨るのは、ライダースーツにフルフェイスを被った男。
こちら、三枝の背中めがけて一直線に。
「見えてないのか⁉ 撃つよ⁉」
忠告をまず放ったが、かき回すような叫び声に呑み込まれていく。
それを良いことに、桔梗が囁く。
「あれ、二人乗りだから」
え? と疑問を浮かべて見せるが、彼は傷を負った肩越しに微笑むばかり。
ならばなるほど、と肯定に笑う。
その間にも、二輪は土煙を舞い上げては近づいており、
「忠告はしたよ!」
銃口がわずかにずれて、少年の太ももへ。
が、その足元の土を、無音の矢が抉る。
「させません!」
「っ⁉」
怯みはないが、警戒ゆえに三枝は下がらざるをえない。
間隙、ライダーが腕を伸ばして迫り、
「なんでだ! お前は、なんでまだ裏門にも着いてねぇんだよ!」
「ウッチー! 校舎をバイクで爆走なんて、なんて尾崎度なんだ!」
桔梗が、やはり腕を伸ばして応じた。
逆の腕がこちらの腰を抱え寄せるから、逆らわずに猫化すると、
「室長! 二人が!」
「あ、くそ!」
絡めあった腕が引っ張られ、反動だけでタンデムシートへ。桔梗の尻が落ちかけて、情けない悲鳴があがりはしたが、一瞬で膠着からの脱出に成功。
……速いわねぇ。
桔梗の腕に抱かれながら、噴き出す爆音から押されるようにすっ飛んでいく、校舎壁面の速度に感心していると、
「くく! これで、全力でいけるわけね!」
「ユウカ、巻き込まれるなよ」
はるか背後となった中庭からは、頼もしい再戦の狼煙が焚きついていた。
これで一息つけたのだなと、嘆息。
影神はようやくの安堵に、そっと少年に身を寄せてみせた。
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