10:(かつての)汀・桔梗なら、

 夕日が、すでに地にかかり始めていた。


 三面ある綾峰学園のグラウンドには、すでに紺の帳が下りはじめており、いずれ天幕が街の頭上に被せられるだろう。

 その曖昧な時間、影をひときわ伸ばしながら、阿古屋は左の拳を放った。


 伸ばし、握り、絞る。

 風を切る一撃は、ボクサーが持つ最速の武器。

 ジャブだ。


 巨躯のリーチと体重とを活かした牽制は、わずかなぶれもなく、警官の顔を捉えた。

 元は己への自信とこちらへの憐れみが浮かんでいた被害者の目には、打ち抜かれた驚きが上塗りされた。


 それでも瞳の光は消えない。ダメージがないのだ。

 それでも少年は、引いた右足を軸にして時計回り。

 次の目標に、やはりジャブ。

 その拳を戻そうとしたところで、左から肉を叩く鈍い音が響く。

 横目で確かめれば、フラッシングダメージでコンマの硬直を余儀なくされた警官が、雪の抜き手で鳩尾を貫かれていた。


 崩れ落ちる第一目標を捨て置き、彼女は時計回りに、阿古屋を追従。

 少年はステップを踏んで、三人目へ、やはりジャブを。

 が、さすがに三度目では直線のヘッドハントも見抜かれてしまい、ガードがあがっていた。

 それでも少年は構わない。

 左側の、重く鈍い打撃に合わせてジャブを放ち、


「っふ!」


 ワンツーの要領で、低い右のアッパー。

 がら空きのボディに刺さり、相手の腕から力が逃げる。

 隙を見逃さず、少女の突きが頬を思いっきり打ち抜いた。

 紺の制服たちは、一息で無力化された三人の仲間を見て、慄きに叫ぶ。


「なんだ、このガキどもは!」

「確保なんて、到底無理だぞ!」


 同じようなやり取りで、警察側は当初の半数となっていた。

 曲がりなりにも戦闘職である大の大人が、揃いも揃ってグラウンドに転がって呻いている。

 少年は緊張で吹き出した汗を拭うと、


「相変わらず、一撃が軽いな」


 涼しい顔で襟元を緩める少女へ、軽い笑いを作ってみせた。


「相変わらずおせぇんだよ、ん」


 彼女も、


「なら、二人で無双だ」


 頬を緩めて、ざわめく警察たちへ視線を。

 阿古屋もそれに従えば、ざわめきの質が変わっていることに気付く。


「う、動くな、貴様ら!」


 没個性の青年が、黒光りする何かを構えており、


「……銃か! ん⁉」

「馬鹿野郎! 当たったらどうするんだ!」

「うるせぇ! こっちの方が手っ取り早いだろ!」


 頭に血が上ったのか、同僚の言葉に耳を貸す素振りもない。


 ……銃はマズイ、ん。


 ボクサーは、汗が冷たくなるのを覚える。

 相手が木刀を持っていても、自分のハンドスピードがあれば柄を捕まえる自信はあるし、刃物であってもどうにかなるだろう。

 しかし、銃はいけない。

 アクションに対する威力比が、桁違いだ。

 拳の届く位置であっても、勝てる気がしない。

 だから冷汗の量が増し、じり、と後退してしまう。

 ところが、


「っ⁉ ん、おいナナ!」


 七目・雪は前に出た。


「止まれ! おい、見えてないのか! 銃だぞ! おい!」


 警察も混乱している。緊張で定まっていなかった銃口が、さらに踊りを激しく。

 阿古屋も焦り、しかし前には出られず、


「ナナ! おい! 何する気だ、ん⁉」

「勝つのさ」


 浜から駆け昇ってくる風が、彼女の短い髪を撫でるように揺らす。


 ……勝つって、お前。


 呆れにも似た顔で一つ下の幼馴染を見れば、少女も理解できないという顔で、肩越しに小首をかしげ、


「汀・桔梗なら、ここで退くか?」

 ……いや。

「大切なものを背負って戦うことを、躊躇うか?」

 ……いや。


 あいつなら、立ち向かうだろう。勝てないと知ったなら勝てる算段を手に入れて、そうでなければ、その身を削って。

 大体、


「それで退くなら、四年前にあんな怪我をするものか」

 その通りだ。


「俺の大切なものは、梗さんに勝つこと。だから、ここでは退けない」

「ったって、相手は銃だぞ!」


 最悪、四年前のアイツと同じ結果に。

 けれども雪は晴れやかに笑い、


「実戦空手をナメるなよ」


 震える銃口へと、迷いなく踏みだした。


      ※


「すぐに、キョウさんと合流しないとね」


 夜の近づく中庭を駆けるカゲツミ二人のうち、追従する影神の言葉に、先行する影摘みがぴたりと足を止めた。

 おや? とマーカラが訝れば、アニェスは振り返り、


「なぜだ? トオルは最悪切り捨てろと言っていたぞ」

「……キョウさんたちが苦労するわけね」


 問い返す彼女に、ため息をこぼしてしまう。


「切り捨てるのは、本当に最悪の場合よ。順当に考えて、奴らにとっての目標は私で、その次はキョウさんなんだから」

「説明しろ」

「じゃああなた、キキョウの命が惜しかったらマーカラを引き渡せ、と言われたなら?」

「迷わず貴様を……了解した。急がないと」


 足元の土を抉るように、アニェスが加速。揺れる銀のボブカットが、夕暮れの空を映して赤く燃えた。

 単純ねぇ、と影神は微笑み、前進を再開。

 すると、行く手を塞ぐように、校舎の窓から小さな人影が転がりでてきた。

 見間違いようもなく生徒会会計だが、


「アサヒか?」


 影摘みの誰何にしかし少女は応えず、切らした息をそのままに、緊急事態を告げた。


「梗さんが捕まったわ!」

 女二人は、表情そのままに凍りつく。


 ……最悪、ねぇ。


 これで、この連中は自分を引き渡すことに躊躇しない。ならば、ここで逃げ出すべきか、すぐさま桔梗の奪還に向かうべきか。

 後者だろう、と即座に結論。


 ……なんせ、あの味が忘れられないからねぇ。


 舌舐めずりし、与えられた魔力の味を思い出す。奪うことにしか使わなかった唇が、与えられる喜びを知ったのだ。

 ならば、諦めはしない。

 傍らの影摘みと覚悟のアイコンタクトを取ると、校舎の影から人の気配。

 緊張を敷いて動向を見守れば、


「待ちなさい、あなたたち!」


 鋭い声と共に、スーツ姿の女が現れた。

 幾つものカットパイプで頭髪を束ねるという、異端のファッションスタイルに目を奪われがちだが、何よりも特徴的なのは、


「うはあ! 女刑事ですよ! しかも子持ち!」


 腰に抱きつきぶら下がっている、満面笑顔の汀・桔梗だ。


「これ、なんとかしなさい! あ、こら! 登ってくるんじゃありません!」

「くう! さらに、女教師属性までありそうなんですが⁉ 僕を叱ってください!」


 マーカラは口を半開きで肩を落とし、私の覚悟を返せ、と本気で願う。


「さすが、我が最大の強敵と書いて友よ……!」

「貴様、見ていて止めなかったな?」


 アニェスは、ふむう、と唸る旭の顔面を捉えそのまま宙吊りに。

 この状況、主導権を握るのは桔梗であり、


「もう少し! もう少しで、この世の幸せが全て詰まっている、二つの丘が! ねぇ、しずるさん! ねぇ!」

「あなたも去勢ですか!」


 内閣特別調査室員である中居・しずるなかい・しずるが、顔色を怒りに変えた。

 ずり上ろうとしている左手を掴むと、一瞬で手首と肘を極め、捻りながら、少年の体ごとを投げ飛ばした。


「っぎゃ!」


 土に背中から落ちて情けない悲鳴を上げる彼の額に、銃口が押し当てられ、


「できれば撃ちたくはありません」


 押し当てた中居は、端的な警告を放った。

 速い、とマーカラは素直に思う。

 投術からのクイックドロー。過程に無駄はなく、逆に、銃がある分、ダメージを目的とした行程を省いているほどだ。


「では、交渉と行きましょう」

「できればやめてほしいけどねぇ」

「こちらも仕事ですので」


 自分が状況を覆すには、魔力が不足している。アニェスに頼ろうにも、彼女では速度が足りない。

 仕方なしだが、交渉のテーブルに付くことになる。 

 と、この状況を故意に作ったようにも思える桔梗の様子を確かめれば、


「……笑っている?」


 地顔だ。

 が、その穏やかな視線は、マーカラから見て左にひっそりと建つ、ブロック造りの物置小屋の屋根に。

 その場の全員が彼の様子に気が付き、訝ったところで、


「何を見て……っ!」


 言葉を遮るよう、中居の足元を、矢が抉った。

 人の身であれば致命となる威力に、誰もが言葉を呑んで振り仰ぐ。

 そこに立つのは、茶けた波打つ髪を後ろで束ねる少女。

 凍沢・夕霞は、鋭い眼差しで見下ろしていた。


 手に、引き絞った第二射を構えて。

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