9:疼くのは、傷か、心か、かつての成れの果てか

 うつ伏せの三枝は一人、肛門をおさえて人生に疑問符を投げかけていた。


「基本、入れるのは男のほうっすよ……?」

 ……指二本を、しかも二度も突き入れる奴がいるか。


 少し動くだけで、負傷個所が思う様痛むものだから、寝返りも打てやしない。

 ……そうだ術式で治療しよう。

 と、現代の魔術師が決心すると、


『室長、応答を』


 インカムが、低い女の声を届けてきた。

 いや間が悪い、と吐息しながら回線をつなぐ。


「どうっ! ……しました、中居なかいさん」

『……こっちのセリフですが。なんですか、今の声』

「ちょ、ちょっと油断しちゃいまして」

『よもや、学生相手に行為に及んでいたりなど……』

「そ、そんなことあるわけないっすよ!」

『我々は‘ラブマスター’をナメていません。嘘をついていた場合、去勢ですからね』

「うわ、今日二度目っすよ、その単語! てーか、逆に及ばれたんすよ!」

『……やはり去勢ですか』

「嘘じゃないっすよ!」

『はいはい』

「くっそー!」


 両手で床をばんばん叩いて、悔しさを表明する三枝だったが、ノイズかかる部下の声は実務の話題に移行。


『現在、グラウンドから進む警察隊が、部室棟で阿古屋・透と七目・雪に接敵。話は通してあるんですよね?』

「ええ。校長には、銃を持った殺人強盗犯が逃げ込んだと言ってあるっす。で、目標は?」

『確認できていません』

「彼女なら、中庭経由で裏門へ。そっちにはアニェスちゃんもいるから、本命をぶつけてください」

『本命……木積さんを、ですか?』

「そう。‘あの’木積・剛きづみ・ごうを、です」


 人が人のまま強くなれる、現時点の限界に立つ男の名だ。内閣特別調査室に所属する、最強の人類であり、空手家。

 その男を動員する意味を思い、三枝の目つきが変わる。緩い垂れ目が引き絞られて、


『あの人、やる気しねぇ、とか言って、パトカーで寝てますよ』

「……は?」


 あっという間に、まなじりへ垂れが戻ってしまった。


「なんすか、それ! 職場放棄もいいとこっすよ⁉」

『苦情は本人にお願いします』

「……いや、ほら、それは、ねぇ、ほら……」


 最強の人類は気まぐれだ。

 焼き鳥一本盗み食いされただけで、マジパンチを放てるほどに。

 だから、三枝は震えながら、これ以上の要請は不可能と判断する。


『ですが、どうしてアニェス・マルグリートの動向を知れたのです? 盗聴器は、付けた端から壊されていくと、前におっしゃっていましたが?』

「ま、昨日の今日でしたんで、一応二個つけておいたんす。単純なトリックですけどね、四年も続けてる行為だから、作業化している。そうなったら、結構効果的なんで」

『壊されるのが分かっていて付け続けたのは、この日のため、と?』

「そういうことです」

『嘘つけ』

「な⁉ ちょ、どういうことです⁉」

『では、中庭方面には私が向かいますので、室長も急いでください』

「いやいやいや! 質問には答えてください! 俺の沽券に……!」

『あまり口応えが過ぎると、本当に去勢しますよ?』

「げ、言論の自由を主張するっすよ!」

『まあ、お好きに』

「く、くっそー!」


 両手が床を叩く。

 インカムから歓声と怒声が聞こえ、同じく開いている窓からまったく同じ声が。


「始まりました?」

『いや、まだです。野球部とサッカー部が、七目・雪を見つけて「ナナさんの喧嘩だ! 場所を空けろ!」と始めたところです』

「すごいコアな人気っすね……まあ、中居さんはご存じでしょけど、警察の皆さんに忠告を」

『ナメるな、と?』

「ええ。十年以上、目的をもって鍛えてきた連中ですから。木積・剛が最強を志して三十年としたなら、彼らはその三分の一を経過している、と言えば危険度はわかってもらえるっすかね」


 乱暴な換算であり、過大評価でもあろう。

 けれども、彼ら二人が、ただのIH王者ではないことも事実。

 全ては、彼らの動機である汀・桔梗の存在だ。


『どうやら、思うところがあるようですね』

「……あたりまえっすよ。大きな顔で戦場を掻きまわして、こっちの邪魔をする」


 不快を刻んだ眉間に浮かべて、三枝は深く声を放つ。


「何よりも、四年前に勝ち逃げされてるんすから」

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