5:肩を並べたあなたの今に、心は寒く思うのだ

 阿古屋たちが野次馬をかき分けて駆け付けると、生姜焼きの匂いが立ち込める食道の中央は、流れる血に染められていた。


 立つ少女は一人。

 ベリーショートの黒髪に、やはりベリーショートのスカート。黒のTシャツには「マスタツケンザン!」と赤の毛筆体で。頬には絆創膏が乱暴に張られているが、据えるような三白眼は落ち着きの光が宿る。

 そして、圧を放つ右手に、派手に鼻血を流す桔梗の襟首を掴みながら、


「おう。どうした、雁首並べて」

「ナナ!」


 黒猫を肩に乗せた阿古屋は、七目・雪ななつめ・ゆきの左拳が赤く染まっているのを見咎めた。


「その血は⁉」

「梗さんのだ」


 二秒の後、


「よかったー!」


 関係者は軒並みに安堵。


「あれ⁉ みんな、その反応おかしくない⁉」

「わりぃな、ナナ。手間掛けさせちまった」

「被害者、僕ですけど⁉ この血、見えてないのかな⁉」


 誰もが喚く生徒会長を無視して、事後処理に移行。


「はい、皆さん、お騒がせしましたー。もう大丈夫ですので、どうぞお食事を続けてくださーい」

「メシがダメになった奴は、補償するからあとで生徒会室な? ん?」


 おいおい、なんだもう終わりかよ、残念だなぁ、などと好き勝手なことを言う野次馬たちを、夕霞と阿古屋は手慣れた様子で席に戻していく。


「で⁉ 梗さん、で⁉」

「なんだい、八頭っちゃん?」

「誰のおっぱい揉んだの⁉ ほら感想を! 五段階評価で四以上なら、オッパイソムリエとして確認に向かうわ! だって私の使命は、地上にオパイ浄土を作ることなんだから! おっぱい! おっぱい! ああ、おっぱい……っ!」

「よぉし、落ち着くんだ八頭っちゃん! 僕は、今日……」

「俺だよ」


 桔梗の弁解を、現状加害者である雪が、男口調で遮った。


「こいつが後ろから飛びかかってきてな、咄嗟に打ち抜いちまった」


 にこりとせずに淡々と告げられるのだが、状況を知らない生徒会メンバーは、うんうんさもありなん、と大いに納得。

 憤然と抗議をするのは、襟首を掴まれたままの桔梗で、


「嘘だ! 濡れ衣です! 僕は今日、デザートのプリンと、ユッカのビックリするほどの乳、略してビッチを夢で揉んだ以外、誰のも……!」

「わーわーわー! ちょっと! なんて夢を見てるんですか! というかその単語、共通言語なんですか⁉」


 食堂の奥の方で色めき立つ集団があったが、おそらく夕霞のファン連中だろう。

 アニェスとシータの人気には叶わないが、彼女も校内では人気が高いと、阿古屋は聞いたことがある。特に、童貞男子からの。

 ボクサーは苦笑成分を浮かせた感心を見せて、


「で、梗さん。嘘だというなら、証拠があるんだろうな、ん?」

「証拠だって? うーん……うーん? あれ? ないよ?」


 あるはずがない。もしあったとしたら、痴漢の冤罪など、生まれはしないのだから。見越していた阿古屋は手を振り上げ、


「さん、はい」


 下ろすと、食堂の全員が声を揃える。


「「「「「ゆーうーざーい!」」」」」

「判決ぅー?」

「「「「「死刑!」」」」」

「待って待って待って!」


 下された審判の刃を、桔梗は何とか白羽取りし、


「じゃあ、こうしよう!」


 逆ギレ気味に、


「公平に、一度多数決を取ろう!」


 あちこちから上がる落胆の声に、なんだいこのアウェー感⁉ などと身をよじらせる彼へ、


「仕方ねぇな。けど、今の見たろ?」

「勝負はわかんないだろ、アコ」


 わかると思うけどなあ、とは口にせず、雪に目配せ。

 向こうも察したらしく、襟首を解放してやると、桔梗は咳払い。


「じゃあ賛成の方に手を挙げてね。いくよ?」


 ぐ、と周りに強い視線をばらまいて、


「ナナさんのおっぱい揉みたい人!」

「な⁉ お前、馬鹿か⁉」


 半分も言い終えないうちに、雪の制止も間に合わないうちに。


「はいはいはいはい!」

「ウッキャー! オレ、是非ともオレに!」

「うわー、俺の右手が勝手にー!」


 男子全員が右手を突き上げた。一際テンションが高いのが「揉ませなさい! 今日もサラシでがっちがっちに固めたおっぱいを、私に揉ませなさい!」と両手を挙げて跳ね回っている旭なのだから、しょうがない。

 ただ、その風速が周囲に伝播してゆき、ついに「雪」「オパイ」の二語が、広い食堂を席巻していく。


「ちょ、ちょ、ちょ――!」


 意外な人気と羞恥に、雪は頬をツツジのように赤く染めて、


「ほら、大人気! きっと、僕以外の誰かが揉んだんでぐべらっ⁉」


 元凶である汀・桔梗の顎に、正拳を叩き下ろした。


      ※


 ざわめく人垣が、左右に分かれていく。


「どいてくださーい! 怪我人が通りますよー!」


 切れ込みを入れていくのは、ぴくりともしない桔梗の足を、掴んで引きずる夕霞。

 そんなたくましい背中を、数歩後ろから続くのが旭で、並ぶのが雪だ。


「くく! あれで階段を降りようとする辺り、ユッカもなかなかの正気度ね!」

「アコがくりゃ、任せちまうんだけどな」


 黒猫を広い肩に乗せた副会長は、食堂の混乱を収めるべく、保健室への護送を断念した。やけに喜々とした顔をしていたから、雪は正解に近い邪推をせざるを得ないが。

 けれど人気のある男だ、と白目を剥いて気絶している生徒会長を見下ろす。


「朝の一件といい、こいつは相変わらずだな」

「結局、シータの脱走で騒ぎが大きくなって、大混乱で持ち物検査は中止よ⁉」

「孫六と教師に怒られてな。いつも通りじゃねぇか」


 いつもそうだ。事態の混乱を望み、落伍という結果を望まず、自分が泥を被る。

 去年のマラソン大会もそうだし、もっと前の、


「四年前もそうだったしな」

「昨日も、よ」


 珍しい旭の嘆息に、雪は驚きながら目を落とした。

 少女は細い眉を立て、常の不遜な顔を消してしまっているから、頬を掻く。

 昨夜の話は、朝に夕霞から聞いてある。あの黒猫が影神だとは信じられないが。

 それでも、また戦いを招くのか、と苦笑してしまう。

 すると、今度は旭から見上げられ、絆創膏を指差された。


「また怪我?」

「昨日、道場でな」

「昔、梗さんも通ってたとこ?」


 駅前にある、極真空手道場のことだ。

 三歳の頃から通っており、当時は負けなしの天才空手少女として、幾度か取材を受けたこともあるほどだ。そして、公式戦無敗の記録を更新しながら、現在はIH王者である。


 だが、汀・桔梗がいなければ、今日の自分はいないと確信できる。

 一つ年上の彼は、彼女に遅れること二年、小学一年の春に入門してきた。

 声が大きくて、明るくいたずら好きな性格から、すぐに道場の人気者に。空手のほうも、抜群の動体視力と身体能力で、あっという間に同学年のうちで一番になり、大人たちも注目するようになった。


 ……彼は本物の天才だ。


 面白くなかった雪は幾度となく組み手を挑んだが、一度も一本が取れず、逆にその後六年の間に計で千本は取られているはず。

 雪の小等部の記憶は、桔梗を負かすためにだけあった。自己研鑽を怠ることなく、ゆえに天狗にもならずに済んだ。

 だからこそ、中等部にあがった彼が道場をやめてしまった時は落胆したし、四年前に傷ついた時は心底から絶望した。


 七目・雪は、だから、汀・桔梗に一度も勝ったことがない。


 これから先も、勝つことはできない。

 据えるような三白眼を細めて、これが今の自分だと、笑って確かめる。


「で、さっきは本当に揉まれたの?」

「あ? ああ……ありゃ嘘だ」


 悪びれもせずに答えれば「あんたね」と旭の肩が落ちる。


「そうやって殴る理由を捏造するの、やめなさいよ」


 胸を反らすと、


「梗さんはもう、あんたの拳は受けられないんだから」


 いつも高い圧力で猥雑な言葉を繰り返す小さな口が、忠告をしてきた。

 驚きに目を丸くした雪は、素直な言葉を告げる。


「……お前、正気度そんなに高くして大丈夫なのか?」

「……ほう、いい度胸ね!」


 両の口角を持ち上げると


「てい!」


 喉から攻撃音が放ち、


「なに、ナナ! このノーマルな下着!」


 短いスカートが全力で捲られた。


「ふぁ⁉ え、あ、ちょ――⁉」

「色も白なんて、面白みがない! もっとサプライズを仕込んでおきなさい! そうね、レース……否、やはりナッシングパンツ、略してナッパよ! これで男どもの飢えた視線は釘付けね……!」

「放せ、変態!」


 小さな体にサッカーボールキックが炸裂、二転三転して動かなくなった。

 そして事の成り行きを優しく見守っていた周囲の男子生徒たちへ、激怒の涙目で向き直ると、あまりの羞恥に、


「一人ずつ前に出ろ!」


 親と子の指以外全てを立て、


「順番に目を潰してやる!」


 正気度をゼロにした。

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