4:彼女の名前は
「マーカラ・カルスタイン?」
綾峰名物『学食弁当』の生姜焼きを箸に捉えたまま、坊主頭の少年は首を傾げた。隣のパイプ椅子に腰かける、胸部下側を露出するデザインのパーティドレスを着込んだ女が、犬歯を剥きだして笑いかける。
向かい側の、彼女の名を教えてくれた旭が身を乗り出してきて、
「この下乳痴女の名前よ!」
無遠慮に露出部分を鷲掴んだ。
揉まれて揺れる白い肌を凝視しながら阿古屋は、
「黒猫のままのほうがよくねぇか? ん?」
「そうねぇ。気持ちいいから、まあいいんじゃない? あなたは? 反対空いてるけど?」
「いいのか、ん⁉ じゃあ、遠慮な痛ぇ! 旭テメェ何しやがる!」
ボクサーの拳にフォークを突き立てた少女は、険しい顔で、
「ダメ! こんな下劣なおっぱい、揉むのは私だけで十分よ! 牛みたいな乳をして! 名は体を表すとは、まったくこのことね! ハァハァ……!」
ハイテンションをぶちまけた。
「けど調子に乗るのも今日この限りまで! 私たちにはユッカがいるんだから!」
「え⁉ ちょあふひゃあっ⁉」
テッペンをキメている旭が、隣席で揺れていた豊かな胸を、唐突に、しかし全力で捉えた。
厚手の冬服ですら張り裂けんばかりに漲っており、小さな指の隙間から実りがはみだしてしまう始末。
柔らかく揺れては、手の平にほどよい圧力を返してよこす。
「どう⁉ ビビった⁉ ビビらないわけがないわ! 生半可な巨乳じゃないんだから! サイズ、ハリ、色、艶! 全てがパーフェクト! まさにビックリするほど乳、略してビッチ……!」
「それは本気でやめてください!」
「ユッカ、すげービッチだ! ん! こんな幼馴染がいて、俺は誇りに思う……!」
「やーめーてー! ここ壁薄いんですから! また変な噂が……って八頭っちゃん! 何、ブラウスのボタン外してるんですか!」
「大丈夫、私に任せて! 更なる高み、ビッチの中のビッチになるためよ……!」
長机の向かい側で始まった、弁当そっちのけのいかがわしい組み手を無感動に眺めながら、阿古屋は隣の席に訊ねる。
「で、マーカラ・カルスタイン?」
その名は、古い小説に出てくる女吸血鬼の名だ。貴族の娘に性的快楽を教え、その代償に血を求める、寄生型の捕食者。その、恐怖物語の舞台は、
「オーストリアか。ん?」
「あら、よく知ってるのね」
垂れたまなじりに意外を浮かして、古い名を戴く女は微笑む。
「ありゃ創作だろ? それとも、ご本人だってのか? ん?」
「まさか。オーストリアで人を喰っていたら、知らないうちにそんな名前をつけられただけ」
なるほどね、と友好的とは言えない声音で、吐息を見せつける。
「やっぱ、人を喰うことに罪悪感はないか、ん?」
「あなたたちは、豚を食っているのに?」
艶のある視線は、箸で宙吊りになったままの生姜焼きに。
言いたいことはわかるけどなあと、人の少年は箸を置いて、腕を組む。
「正直に言うと、俺は生理的に受けつけてねぇ」
人を喰う生き物であること、桔梗から全てを奪った生き物であること。
「ふふ……それはね、こっちも一緒よ? ただの獲物なんだから」
「だろうな、ん」
「けど、今はキョウさんがいる。そっちも一緒でしょ?」
「だな」
マーカラにとって、桔梗は命の恩人だ。少年は身を削って彼女を救い、彼女はとりあえず、彼の望みに報いている。
翻って自分たちは、桔梗の望みを叶えてやると誓っている。
不釣り合いなシーソーは、桔梗を中心に、とりあえずの均衡状態だ。
それが、まあ良しと思ってしまう自分に、
……だいぶ毒されてきたなあ、ん。
阿古屋は苦笑し、生姜焼きを一口で頬張る。
「しかし、どうして美柳に?」
「カゲツミが多くいるって聞いてね」
「なるほど、ん」
魔力を捕食する影神にとっては、魔力の塊であるカゲツミは絶好の御馳走だ。その個体数の多さというのは、来訪の理由として、阿古屋を十分に納得せしめる。
けれど、とマーカラは眉をしかめ、
「けれど街に入った途端、変な男に絡まれてねぇ。人間だと思うんだけど、これがもう滅茶苦茶強くて」
「変な男?」
「ええ。スーツ姿でサングラスの」
「そいつぁ、もしかして……ん?」
阿古屋は、言いかけた名前を呑み込む。
理由は、締め切った窓から飛び込んだ、遠くから聞こえてくる、
「……これ、悲鳴ですか?」
「しかも女子よ!」
手四つで押しあう女子二人も敏感に反応。
だから、副会長は残念な確信に、
「またあのバカ野郎だ! ん⁉ 買収用食券は⁉」
「私が持ちました!」
「くく! ほら、あんたも猫に戻りなさい!」
「はいはい、ちょいとお待ち」
全員が最大戦速を解放し、生徒会室を飛び出した。
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