3:大人たちは子供たちを、よくよく見守っている
「地震か?」
ティーカップの黒い水面が波紋を刻んだ。
アニェスは、鉄面皮のまま首を傾げていると、
「これくらいの揺れ、よくあるよ。カゲツミがよく降る街なんだから」
同席しているスーツの男が、にっこりと笑う。
ビジネスマンが行き交う新市街のオープンテラスで、彼だけは優雅にティータイムを楽しんでいた。
脚を組んで煎りの深い苦いコーヒーに口をつける青年に、
「生憎、嫌味は通じんぞ、サエグサ」
アニェスは冷たい眼差しを叩きこむ。
男の名は
「なんだかなあ。もう少し、愛想良くしてくれてもいいんじゃないかなあ、とスポンサーは思うんだけど」
「感謝はしている。影摘みの私に戸籍を用意してくれて、金銭的な支援もしてくれているのだから。だが、契約に愛想はなかったはずだ」
地上における、アニェスの身元引受人でもある。
「ま、カゲツミ界の話を、いろいろと聞かせてもらってるからね……高校卒業まで、金銭的な苦労はさせないよ」
テラスのガラス製の丸テーブルの上には、学生服の少女とスーツ姿の青年を挟んで、分厚い茶封筒が。
知らない人が見れば「真昼間からいかがわしい」光景。
気付いた者は眉をひそめるが、彼は一顧だにせず、
「いやあ、またキレイになったんじゃない?」
口説き始める。
それが‘ラブマスター’と呼ばれる青年の美学であると知っているから、アニェスは誠実かつ真摯に応対する。
「去勢しろ」
「え⁉ うわ! 結論、ぶっ飛びすぎてない⁉ 桔梗くんにも言ってやりなさいよ!」
「キキョウには必要ない」
「エ、エコヒイキだ! それとも俺が特別扱い⁉」
心の傷に堪えきれなくなったか、コンチクショウ! と叫び、コーヒーの苦みへ逃避していった。
相変わらずだ、とアニェスは心中で呆れの吐息。
内閣特別調査室の保護下にある影摘みの少女は、月に一度、こうして室長である彼への報告を義務付けられている。
それ以外でも連絡先が知られているせいもあり、活発な一方的連絡が取られ続けており、
「で、一昨日に教えたの、見つかったりしてない? どうも、魔力損傷がひどいうえに、隠匿能力を使ったみたいで、追い切れないんだよね」
「貴様らが追い詰めた
鉄面皮は、その強度を少し強めた。
完全に心当たりがあるからだ。
三枝が言うのは、彼女のことに間違いない。
桔梗が昨日の放課後に拾った、傷ついた黒猫に化けた影神のことに。
だから、
「否だ。こちらの日常はつつがないぞ」
嘘をつく。
つかれた男は気付かぬのか、やる気なく背もたれに体重を預けて「そっかー」とカップを空にし、世間話を。
「みんな元気? 旭ちゃんとかナナちゃんとか、あと、あの……凍沢葬儀屋の跡取り……」
「ユウカか。しかし、出てくる名前が見事に女ばかりだ」
「男はほっといたって、自動的に元気な生き物だから」
肩をすくめ、二枚目らしい涼やかな笑み。
が、アニェスは首をかしげて、
「少し前までは、キキョウのことしか訊かなかったのに?」
「思うところがあったからさ」
何が、と問おうとするが、
「けど、君の報告で安心したんだ。元気でやっているみたいでさ。こっち側に首なんか突っ込まず、普通の人として生きた方が、絶対に幸せだよ」
重ねるような言葉に誤魔化されてしまった。
「四年前に、何もかも失ったんだから」
「否だ。それは否だぞ、サエグサ」
思わず飛び出た否定の言葉に、
「そうなの? けどま、もうこっちの邪魔だけはしないで欲しいなあ。あ、ところで携帯の番号変わってね……」
しかし、異能を振るって街を守る青年は、興味を掻きたてるわけでもない。
……これが、キキョウの立ち位置なのか。
現役にとっては、イレギュラーな子供であり、戦線から退いた傷痍兵にすぎないのか。
やるせなさに、アニェスは鉄面皮を、ほんのわずかだけ歪ませてしまう。
桔梗のためか、自分のためか、判然としないままに。
※
帰路。
平日の午前中から賑やかで仕方のない美柳商店街を、いかんともし難いわだかまりを抱えた少女は、うつむき加減で綾峰学園に向かっていた。
彼女は、この鬱屈のわけを理解している。
三十分ほど前の、三枝・和也との会話のせいだ。
汀・桔梗が、まるでないように扱われている現実と、その原因である自らの過失。
悔悟があって、迷いがあるから、アニェスは顔を上げられない。
うつむけば、自然、自らの豊かな胸が足元を隠す。その左側を飾るのは、綾峰の校章ではなく、桔梗の花をあしらった手製のワッペンだ。
人形のようだと言われるアニェス・マルグリートの、表情に乏しい口元も、自分一人だけの今ばかりはため息をついてしまう。
そんな無防備めがけて、突然の飛来物。
「む?」
害意のないトスを、影摘みは右手でなんなく受け止めると、
「……レンチ?」
「どうした? どうしたアニさん、景気の悪い顔して」
放物線の出元を見れば、ガードレールに腰をおろした、顔の造形が鋭角な少年による笑顔。
胸に「瀬見内」と縫われた油に汚れるツナギ姿で、右目を覆う黒い眼帯には黄色のビーズで桔梗の花が描かれている。
「お前こそだ、オロシ。ひどいクマだぞ。仕事は、まだ片がつかないのか?」
見れば「セミウチ・モーター」という錆びた看板を掲げる、大きな工場が。古い写真を納めた額縁が多く並ぶ作業場は、すでにがらんどう。しかし、通りにまで漂ってくる熱気が、ここが戦場であったことを教えてくれる。
「今さっきだ。今さっき、納品が済んだとこだ」
職人と親父は奥で潰れてるはずだ、と隻眼の少年は疲労の濃い口端で笑って、
「梗さんだろ。アニさんにそんな顔させるのは、梗さんだけだ」
胸のワッペンを見つめて、半笑いのまま嘆息した。
彼もまた汀・桔梗の幼馴染であり、四年前に美柳の裏側を知った一人だ。
だから、刺繍の意味もビーズ細工の理由も、互いにわかっている。
自嘲を肩に沈めると、
「否、自分のせいだ。キキョウは関係ない」
「律儀だな。相変わらず、律儀で難儀な奴だ」
「難儀はオロシもだろう」
少女が顎で指すのは、工場の隅に盛り上がっているブルーシート。中に、バイクが三台ほど収められていることを、アニェスは知っており、
「いつまでああしておく?」
「梗さんがバイクの免許を取るまでさ」
へら、と笑って腰を上げと、天頂を目指す日の下を工場へ向かいながら、
「前から言ってるだろ。初めては梗さんだって、前からな」
眼帯側から振り返って、ビーズの花を指さした。
「あいつに救われた俺たちは、あいつの失くした全てを埋めてやろう、だろ?」
アニェスはこぼすように笑い、
「その通りだ」
「はは!」
応えれば、笑声を一つ春空に響かせて、隻眼の少年は歩みを再開。
「……む?」
と、アニェスは手に残されたままのレンチに気がつき、
「オロシ、忘れ物だ」
「んあ? おお……どうしてだ? どうして振りかぶっているんだ?」
「私は律儀だからな。途中で落ちる、などという失態は犯さない」
「それで貫通をチョイスか⁉ 失態を恐れて、暴挙を選択しやがった!」
なぜ、彼がそこまで狼狽しているのか、アニェスはわからない。
確かに、威力の乗った工具は、工場の薄い壁くらいはぶち抜くに足る。とはいえ、少年がしっかりとキャッチすれば問題ないのだから、
「安心しろ。ちゃんと、お前に向けて投げる」
「また⁉ また正気度下がってるな⁉ その短絡と乱暴がツイスト踏んでる思考過程、なんとかしろよ!」
「うるさい、いくぞ」
「バカ! 待てバカ!」
影摘みは右手を、全力で振り抜いた。
その後、数日にわたって「ミヤナギパチンコ☆」の「パ」が不灯となり、周辺に言いようのない生暖かな混乱を招くに至るが、その原因を知る者は一人として現れることはなかった。
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