2:思いもよらない闖入者

 木々のざわめきが消えた。

 不意に止んだ風を、水道から口を放した坊主頭の少年は、振り仰ぐ。


 体育館脇に設置された運動部共有の水飲み場には、彼一人。野球部もラグビー部も真っ盛りの最中のはずだから、石造りの台座に居並ぶ蛇口は、贅沢に独り占めだ。

 落ちる汗を大きな手で拭い、巨大な校舎に遮られた空を見上げる。


「すっかり春だな」


 薄い橙に染まりつつあった。いずれ、街も同じ色に塗られて夜が訪れるが、つい先日よりも明らかに日は長い。少年にとっては、意味もなく心がはしゃぐ季節だ。

 肩にかけていた、『阿古屋あこや』の刺繍が入ったジャージを腰に巻くと、尻が濡れるのも構わず、台座に腰を下ろす。


 と、体育館の裏手から、現れる人影。

 どこか、部活が終わったか? と、憩いの時間が短く終わることに肩を落としかけたが、


「やはりトオルか」

「おお、アニェスじゃねぇか」


 見知った顔であることを確かめると、阿古屋・透あこや・とおるは、に、と笑い、浮かしかけていた腰を元の台座へ。

 アニェスと呼ばれた長身を剣道着に包んだ少女は、ボブカットの銀髪を揺らして、悠然と近づいてくる。


「ロードワーク帰りか、ボクサー」

「ま、見ての通りだな。ん? そっちはよ? 剣道部は終わったのか?」

「否、休憩中だ。だいたい、自分は剣道部員ではない。乞われて、練習に付き合っているだけだ」


 阿古屋の正面までくると、白磁で作られた仮面のような無表情を向けた。腕を組めば、自然豊かな胸が強調される。

 むう、と唸りながら、阿古屋は、


「お前目当てで、新入生が増えたらしいじゃねぇか、ん?」

「意味のないことだ。自分程度の戦力を、憧憬の対象にするなど」

「……違うぞ、俺の言いたいことは」


 アニェス・マルグリートは、その風貌ゆえ男女ともに人気が高い。

 一八〇センチの背丈と近寄りがたい無表情とで、男女比では7:3。ちなみに女子が7だ。異性というよりは、偶像や崇敬の的となっているのだと、後輩から聞いたことがある。


「で、どうした、ん? 用もなく部活を抜け出すほど、お前さんは不真面目じゃないだろ」

「気になることがあってな」


 言って差し出されたのは、小さく折り畳まれたルーズリーフの切れ端。

 訝って、丸めた己の頭を撫でると、迷い、ようやく手を伸ばす。


「まるで、見たくないような素振りだぞ、トオル」

「ぶっちゃけっとな。お前さんの『気になること』は、たいていロクな展開をしねぇ」

「否定はせん」


 少女の力強い肯定に、少年は苦笑し、メモを受け取る。

 と、折り目を開こうとした矢先に「ぎゃ」から始まる悲鳴が、遠くからあがった。


「……あ? この声って……」

「キキョウだ」


 鉄面皮に緊張のヒビが入り、長い足が反転、疾駆の予備動作に。

 その振り上げられた腕を、阿古屋は左ジャブの要領であっさりと掴むと、


「落ち着けよ」

「否、遅れては……」

「梗さんのことだ。どうせまた、悪さでもしたんだろ。なんでもかんでも、俺らの助けが必要なわけじゃねぇよ、ん?」


 納得したのか、体から力が抜けていく。

 だから、阿古屋も手をほどいて、苦笑い。


「お前さん、過保護がすぎるぜ、ん?」

「否、当然だ。自分は許されないことをした。故に誓ったのだ」


 鉄面皮は不満ならしい。頷くことを拒否して、言葉を作って聞かせた。

 少年は、笑みを苦りに変えて、彼女の声を遮った。


「わぁってる。身内で知らない奴ぁ、一人もいねぇよ」

「うむ……む?」


 遠くからアニェスの名を呼ぶ、女生徒の声が複数聞こえてきた。どれも必死で、中には「お姉様無しの掛かり稽古など、二つ以上の意味で手慰みですわ!」などと大声で錯乱している者もいる。

 呆れ半分で、人気あんなぁ、と目で伝えれば、


「練習再開のようだ。早く戻らんと、彼女たちの正気度が底をついてしまう」


 と、片手を挙げて、駆け足で道場へと戻っていった。

 風の止んだ夕暮れに、阿古屋は一人残された。

 手にしたメモをいじりながら、重い吐息をこぼず。


「許されないことをした? そりゃ、俺ら全員だぜ? ん?」


      ※


「許されないことですよ!」


 戸次・シータは大激怒し、廊下に正座するワイシャツ姿の上級生を指差しで説教していた。


「正気なんですか⁉」

「んん? 常にフロンティアを探す冒険者の気分さ、僕は」

「いらん探究心ですよ! 上着程度で許してもらえるなんて、信じられない!」


 桔梗はすでに上着を脱いでいる。傍らに畳まれたそれは、裾口から切れ目が走り、小さな穴が幾つも開くという、無残な状態だ。その傷口の周りには石灰の白い粉が付いており、


「ペーさんのチョーク投げ、そろそろ銃刀法違反にすべきだと思うんだけどなあ。まさか冬服の上着を貫通するなんて」

「自分の犯罪行為を棚に上げない!」

「ええ⁉ シータちゃん、大切な何かを見落としてないかな⁉ 被害者、僕だからその辺スルーなのかな⁉」


 まあ、確かに。

 チョーク投げといえども、そんな威力で全て命中となれば、命の保証はない。


「それでも桔梗さんが悪いです」

「そんな! 日本は法治国家じゃないのか!」

「法治国家だから桔梗さんが悪いんですよ!」


「うへえ」


 会長が変わらない笑顔で弱い声を出すと、ふと、目の色を変えた。

 口元は笑みだが、目元は真剣の光を帯びるから、


「? どうしました?」

「聞こえない?」


 口に人差し指を当てる桔梗に倣い、耳をそばだてた。

 遠くグラウンドからは、硬球を打ち返す金属音やスクラムがぶつかる肉の音、体育館からはシューズとボールとがフロアを叩いている。

 シータは、そんな遠巻きの阿鼻叫喚の中、近くで、しかし弱々しい声を聞く。

 高い、唸るような声は、


「……猫、ですか?」


 出所を探れば、昇降口の隅。傘立ての陰だ。

 立ち上がった桔梗が先んじ、慎重にその傘立てをずらした。が、握力が足りないせいか、途中ですっぽ抜け、派手な音が廊下に響いていく。

 が、意に介さず、彼は覗きこみ、隙間に手を差し込んだ。

 引っ張り出されたのは傷だらけの黒猫で、


「……メスか」

「他に言うことはないんですか⁉」


 野良猫だろうが、人が近づいても逃げないということは、慣れているか弱っているのか。

 おそらくは後者だろう。

 とりあえず、保健室で消毒薬と包帯を分けてもらって、何か食べさせないといけないけど、食堂は……


「シータちゃん」

「あ、はい!」


 段取りの最中に声をかけられ、慌てて顔をあげた。

 桔梗は、ぼろぼろになった上着に黒猫を寝かせ、そのまま抱き上げていた。

 どうするつもりか、と訊ねようとした機先を取られ、


「六時半から臨時生徒会。みんなに伝えておいてくれないかな」


 笑う眼差しが強い。

 この人と出会ってまだ一月足らずではあるが、意志を通すための力を見たのは今日が初めてだ。普段の柔和さとのギャップも大きい。

 だから驚き、


「臨時だよ? 校内にいる人だけでいいから」

「わ、わかりました」


 突然の召集命令への疑問が浮かぶより早く、思わず、駆け去る生徒会長に了解の意を返してしまっていた。

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