恐怖


 扉の外へ出ると先ほどの部屋は廃アパートの1室だった。コンクリートが剥き出しになった階段をコツコツと音を立てて降りる後ろ姿は、どこか悲しそうで何かとてつもないものを背負っているようにも見える。すると、外から警報音が鳴り始めた。


この警報音はハデスが壁の中に現れた時に発令し、鳴ると直ちに市民は近くの地下シェルターへ逃げるよう言われている。私たちは悲鳴を上げながら慌てて逃げる人々の間を通って、先ほどのアパートからほど近い3丁目を走って目指した。


「リネちゃん⁉︎」


突然誰かに後ろから名前を呼ばれた。振り返るとそれは、私が住んでいたところのすぐ隣の住人のおばさんだった。


「リネちゃん、あんた無事だったんだね。今までどこに行っていたんだい、急にいなくなったからみんな心配してたんだよ。それにそっちはハデスがいるんだ。早く避難しなきゃ。」


そう心配そんな顔をしておばさんが言っている間にも、レオはどんどんと進んでしまう。


「あっ………」


「待って」とも言うことができず、どんどん距離が離れていく。


「ほら、早くいくよ。………リネちゃん?」


私は腕をガッシリ掴んで連れて行こうとするおばさんを無理やり振り払って言った。


「私………行けません。」


そう言うと私は踵を返し、レオが向かった方へ走り出した。


「ちょっと!リネちゃん‼︎」


私を呼び止めようとするおばさんを置いて進むと、やっと人ごみを抜けたところにレオがこちらを向いて立っていた。


「遅れるな、早く来い。」


「ごめんなさい。」


レオがこっちを向いて待っていたと思うと、なぜかちょっぴり嬉しくなった。でもその嬉しさは一瞬で吹き飛んだ。


目の前を見ると、大きな化け物を囲って銃を持ったたくさんの人がいた。端の方には負傷した人や手当てをしている人がいて、どれだけハデスとの戦闘が危険なのかを物語っている。


私はごくりと息を飲み、前を進むレオの後に続いた。後ろで指揮を取っていた偉そうな人はレオに気がつくと、深々とお辞儀をして大声でこう通託する。


「全員撤収‼︎」


それを聞くとすぐさまハデスから人が離れ広々とした空間ができ、私たちが今いる場所からハデスまで一本道ができた。目の前には大きな奇声を上げながら暴れるハデスがいる。


記憶していたよりもずっとずっと大きかった。そしてこちらに気がつくと、私たちに向かって威嚇するように口をさらに広げて思わず耳を塞ぎたくなるほど大きな奇声を発した。私の全身に逃げ出したくなるほどの緊張が走る。


 ヴィーナスに入ると言うことは、これほど大きな敵と、緊張感に耐えねばならないのか。


改めてハデスと相対することの恐怖を知る。そして気がつくと前にいたはずのレオはもういなくて、腕を振り上げたハデスの真下にいた。


「……‼︎」 


それからは一瞬だった。


あれほど大きかったハデスは小さなハンドガンから出た銃声と共に一瞬で黒い灰となり、レオの足元には片手で持てるほどの赤いガラス球のようなものが転がっている。レオはその球に向け1発また銃を撃った。


すると赤い球は「パリンッ」と音を立てて割れ、静寂だけが残った。


「何をしている。ついて来い。」


振り向いたレオは私を見てそう言った。


「は、はい。」


あまりに一瞬のことすぎて何が起きたかわからないが、周りの反応を見るといつものことみたいだった。それよりも私の方に視線が集中している。


「あれ、誰だ?」


「レオさんが見知らぬ女を連れてるぞ。彼女さんとかじゃねえか!?」


「おい、バカ。あの方は……」


どうやら私という存在について噂をしているみたい。ちらちらと私たちを見る周りをレオは全く気にせずに、さっきの指揮を取っていた人のところへ向かう。


「被害者は?」


「ご命令通り、まだ処理していません。あちらの路地にいます。」


年齢だけで見るとレオは16か17そこらなのに、それよりも30歳は上の人がペコペコとしている。あまりにも不思議な光景だったが、さっきの出来事の後ではそれも納得できた。


レオは言われた方向に歩いていく。私は置いてかれまいと駆け足でついていくと、路地裏には横たわっている人が2人いた。親子のようで、1人が父親、1人が小さな10歳くらいの女の子だった。


だけどどこか様子がおかしい。息はしているがとても苦しそうで、ぐったりとしている。レオは冷たい目でその人たちを見下し、持っていたハンドガンを私へと差し出した。


「こいつらを殺せ。」


「……え…?」


私は渡されるがまま銃を握るが銃口は下を向けていた。初めて握った銃は思っていたよりもひんやりとしていて、とても重たかった。


「こいつらを殺すことが、入隊試験だ。」


こいつらと言ってもこの人たちは人だ。ヴィーナスはハデスを殺すのであって人を殺す組織ではない…のにどうして?


そう思っていると、目の前の男の人の腕から謎の黒い物体がぶくぶくと湧き出てきた。それはどんどんのその人を覆い始める。あまりのことで私は言葉を失った。


人間からハデスに変わる姿がこんなにも悍ましいとは思ってもいなかったから。


「早くしろ。さもないと完全にハデスになるぞ。」


もう頭が回らない。今まで私はハデスは化け物としか思っていなかった。だけどこんな場面を見てしまったら、今まで私は何を憎んでいて、これから何を憎めばいいのかがわからなくなる。そして今何をするべきで、何を守るべきなのだろうか。



「……ガイ。ハヤク…コロシ…テ………ゴホッ」


「……っ…」


女の子が声を振り絞って私に訴える。私は必死に銃口をその人たちに向けるが、息が上がってうまく焦点が定まらない。その間にも女の子が黒い物体に覆われ始めた。


 早く…早く、殺さないと。

早く、早く、早く、早く………………‼︎


強く目を閉じ引き金を引こうとすると、レオは私の握っていた銃を取り上げ片手で親子に向かって2発だけ撃った。


親子はさっきのハデスのようには消えず、黒い物体に包まれたまま赤黒い血を流している。


「…行くぞ。」


 ダメだった。私は失格だ。


そう落胆できたらどんなによかっただろう。そんなことよりも、あんな小さな女の子がこんな最後を迎えるなんて、と考えると胸が苦しくなる。


どうして、これからの子供が死ななければならないのか。どうして、こんな世界になってしまったんだろうか。


そればっかり考えてしまう。自分の不甲斐なさと覚悟が足りていなかったことをひどく悔やんだ。レオの方を見ると、なんとも思わないかのように顔についた返り血を拭き、その場を立ち去ろうとする。


せっかく掴んだ手がかりだったのに、ここで終わってしまう……


段々と後悔が胸の奥から込み上げてくる。するとレオは止まって私に背を向けたまま言った。


「…まだ銃の使い方を教えてなかった。今のは単なる見学だと思え。」


振り向くともうレオは歩み始めていた。私はただ彼を見つめるだけで、どんどんと距離は離れていく。それに気がついたのか、レオは振り返って私を見る。


「…来ないのか?」


そう言って手を差し出すその顔は無表情なようであったが、耳が少し赤くなっていた。……ような気がする。いや、今思うとそうでもなかった気がする。



私は2人の前にしゃがみ込み目瞑って手を合わせた後、


「行きます」


そう返事をしてレオの方へ駆け寄り、隣を並んで歩いてアパートへと戻った。



「おかえり〜」


部屋の扉を開けるとパルが出迎えてくれた。さっきのけたたましい機械音ではなく、可愛い声で。


「た、ただいま…」


そう言うのは何年ぶりだろうか。今までは帰っても誰もいない暗くて小さな部屋だったのに、今はこの光景がとてつもなく温かく見えた。


「俺は本部に報告をしてくる。お前は手でも洗って待ってろ。」


レオは私の後ろでそういうとバタンと扉を閉め、すぐに出て行ってしまった。


「まったく…主人はもう少し優しくなればいいのに。


さぁ、リネちゃんこっちに来るでちゅ。」


そうして案内された先で手を洗い鏡に写る自分を見る。肩につくくらいの薄いピンクシルバーの髪に赤茶色の瞳、それらは全て兄と同じくお父さんとお母さんから受け継いだものだ。


 私たち家族は近所でも有名な仲良し家族だった。お父さんもお母さんも優しくて、2つ上の兄はいつも私を可愛がってくれていた。たとえハデスのせいで両親が死んでしまっても、兄さえいればまだ良かった。


それなのに兄とは2年前、突如連絡が取れなくなり、私はいつの間にか兄と同じ17歳になっている。兄は今の私をみてどう思うだろう。



「リネちゃん?どうかしたんでちゅか?」


「何でもないよ。


……えっと…」


「パルでいいっちゅよ。」


何と呼べばいいのか迷っているのを察したのか、パルは嬉しそうに翼を羽ばたいて言う。


「じゃあパル。一つ質問があるんだけど、あの人の言葉なんて呼べばいいかな?」


「主人のことでちゅか?そうでちゅね………


『先輩』とかどうでちゅか?どうせリネちゃんならヴィーナスに入隊するだろうし、そうしたら主人はリネちゃんの先輩になるんでちゅから!」


てっきり、「レオさん」とか「セイバーさん」だとかを予想していたものだから「先輩」なんて言う答えが返ってくるとは思ってもいなかった。でも確かにパルの意見は一理ある。


ただ、私が入隊すると言う確信はどこから来るのか……



そしてパルと他愛のないことを話していると、早速帰ってきた。だけどどこか様子がおかしくて、私を見ると目を少し見開いて頭の髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。


「明日から1週間俺の任務を見学した後、銃の使い方を教えるから朝の6時に来い。」

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