ヴィーナス


 5年ぶりに私は監視の目を掻い潜ってこの壁の外を見た。暗闇の向こうには高層ビルが建ち並んでいるが、どれも窓ガラスが割れまさに廃墟というのがぴったりだ。


5年前、まだ小学校を出て間もない頃、ハデスが世界中を闊歩するようになってから私たちの平穏だった生活は終わりを告げた。両親をハデスに殺され、平和だと主張する街に保護されてからは外を自由に歩くことができなくなり、唯一の家族だった兄ももういない。


この世界は私にとって、生きるのには窮屈すぎた。



後ろを振り返ると、下には平和な街で大勢の人たちが生活の火を灯している。きっとその中には笑顔や人の温もりで溢れているのだろう。この壁の中で一握りの平和を手にして過ごしている。だけど今の私にはそれが魅力的には見えない。


むしろいっそ目の前の暗闇に飲み込まれたっていい。


そう思って壁の外の下を眺めた。きっと地面まで30mはある。


 ここから落ちたら死ねるだろうか。全身が地面に叩きつけられ、やっぱりすごく痛いのだろうか。


私は風に靡かれた髪を抑え歩き出した。端まであと1歩という時、突然後ろから声をかけられた。


「俺と一緒に来ないか。」


声の方を向くと先ほどまでは誰の気配もなかったのに、私をじっと見つめる若い男が1人立っていた。夜空よりも黒い髪に、吸い込まれそうなほど透明な水色の瞳。「かっこいい」というよりも、「美しい」という言葉が似合う、そんな人だった。そしてちらっと胸元を見ると光り輝く金のバッジがついている。


それはハデス殲滅部隊、通称「ヴィーナス」のバッジだ。



そもそもヴィーナスは私たちとは遠くかけ離れた存在。一体何人の隊員がいて、どのように私たちを守っているのかもわからない。ただ私たち一般市民は何も知らずにこの壁の中で守られているだけ。


私はそんな状況が心底に気食わない。まるでヴィーナスという手のひらの上で踊らされているような気がしてしまう。


かと言ってヴィーナスに入りたいかと聞かれると、到底首を縦に振る気にはなれなかった。そんな私にこの人は何の用があるというのだろう。



「そうすれば、私の願い『           』は叶いますか。」


「……………」


私は男に質問を投げかけた。しかし男は何も答えない。肯定も否定もせず、ただじっと真っ直ぐ私を見ている。


気が変わった私は一歩後ろに踏み出し、重力に身を任せた。男は走ってこちらへ向かい、私に手を伸ばす。私も男の手を掴もうと少し伸ばした。しかし、あと少しというところでその手は届かず、男は落ちていく私を少しも表情を変えずに壁の上から見ていた。


 あぁ、やっぱりこの世界はつまらない。




 目が覚めると目の前には見知らぬ天井があった。辺りを見回すと部屋には机と椅子、私が寝ていたソファなど必要最低限の物しかなく、私が住んでいた場所よりも何もない。体を起こすと右には大きなガラス窓があり、外はもう明るかった。清々しいほど雲ひとつなく、青空が澄み渡った朝。


 私はまだ生きていた。


体のどこにも傷らしきものはなく、乱雑に腕を振り回しても全く痛みは感じない。でも今はそんなことはどうでもよかった。


私はベッドから立ち上がり、さっき辺りを見回した時に目に入った壁に貼ってある1枚の写真の方へ歩みを進める。その写真には綺麗なシルバーの髪の眼鏡をかけた青年がこちらを向いて笑っているのが写っていた。


「あ、起きたっちゅか?」


 ……ちゅか?


私が写真へ手を伸ばそうとした時、突然可愛らしい声が聞こえた。しかし手を止めて辺りを見回しても誰もいない。いよいよ幻聴まで聞こえ始めたのかと呆れた時、その声はまた聞こえた。


「どこを見てるのでちゅか!目の前っちゅよ‼︎」


そう言われ声のする目の前を見ると、昨日会った男の瞳と同じ綺麗な水色の愛らしい小さな鳥が一羽、パタパタと翼を広げて飛んでいた。


「……鳥が喋ってる…………」


いくら文明が進んだとは言え、動物を喋らすことはまだできない。私は興味本位でその鳥を掴もうとすると、隣の部屋から昨日会った男が出てきた。


「その鳥はただの鳥じゃない、機械だ。」


私は伸ばした手を止め、まじまじと鳥を見る。だけどどう見ても機械には見えない。羽ばたく翼はとても自然だし、呼吸をするかのように胸も小さく動いている。


「僕は機械じゃないっちゅよ!ちゃんと『パル』という名前があるのでちゅ。それなのに主人と来たら、いつもいつも僕を『機械』とか『鳥』とか………全く、いい加減名前で欲しいっちゅよ!」


だるそうに聞く「主人」と呼ばれた男に向かって、パルと言う鳥はぐちぐちと小言を並べている。そんな不自然な光景がどうも私を穏やかな気持ちにさせた。


「そういえば、君の名前はなんていうんでちゅか?」


突然鳥は私の方を向き尋ねた。


「…私は、リネ。性はありません。」


「っ…そうなのでちゅか……。」


この世界で、「性がない」ということは家族や親戚、血のつながった人が誰もいないということを指す。それを聞いたパルは悲しそうに翼を羽ばたかせる勢いを弱まらせた。


「僕はさっき言った通り、パル。とある人によって生み出された鳥のような機械のような存在なんでちゅ。こっちは僕の今の主人、レオ。」


そう言われた男、「レオ」はこくりと小さく頷き続ける。どこかで聞き覚えのある名前だったが、思い出せない。その時突然私のお腹の虫が鳴いた。そういえば、昨日の夜ご飯も食べずに外へ出てから何も口にしていない。


「レオ・セイバーだ。


ひとまず、何か食え。話はそのあとだ。」


レオはそう言うとさっき出てきた隣の部屋に戻り、トレーに乗せたほかほかのご飯を持ってきてくれた。


「主人はいつもああなんでちゅよ。ぶっきらぼうだけど根は優しいんでちゅ。さあ、リネちゃんも座って座って。」


パルに導かれるまま私は席につき、レオが持ってきたご飯をいただいた。


「……美味しい。」


ここ最近はずっとヴィーナスが支給する硬いパンや美味しくもないご飯ばかりだったからか、久しぶりに人の温もりのある味は身と心に優しく染みる。


改めてこの部屋を見ると、本当に何もない。だけど不自然なほどに全てのものが2つずつあった。


まるで誰かがここに住んでいたように……



「………ところで、早速本題だが昨日のお前の『願い』。あれはどう言うことだ。それにどうしてまだ生きている。」


食べ終えると早速尋ねられた。いつか聞かれることはわかっていたが、もうその答えを言う時が来たのか。


「言った通りです。私の願いは『誰かに殺されたい』、ただそれだけ。1つ目の「願いの意味」は2つ目の「なぜ生きているか」と言う答えにつながります。



簡単に言うと…私は自分の意思で死ねないんです。」


正確には「死」に直面しているとわかっている状態では死ぬことができない。


そう言うとレオは納得したように、手を口に当て考え始めた。もっと驚かれると思っていたが、どうやらすぐに私の状況を理解したらしい。パルは意味がわかっていないのか首を傾げている。


「…つまり、自分で死ねないから「誰かに殺されたい」と。」


「はい。」


そうだから私は自殺することができない。


それは生まれつきそうだった。自分のミスで怪我をしても、すぐに再生し傷は塞がる。きっと昨夜壁から飛び降りて体はぐちゃぐちゃになっただろう。どんなに原型をとどめていなくても5分ほどあれば大抵の場合再生する。最初は大層みんなに気味悪がられた。そして次第に私はこの能力を隠すようにした。


だけどこの能力のせいで私はこうして今も生きている。両親がハデスに襲われた時も、私は何もできなかった。



「なぜ死を望む?」


「家族もいないこの世界で私に生きている意味などありませんから。」


本当にその通りだ。家に帰っても待っているのは暗闇と静寂だけ。もう私には温かな家族の影すらないのだ。


「……やはり欲しいな。」


レオは小さくつぶやいて言った。


「改めて言う。ヴィーナスに入らないか。」


さっきまでだったらまだ断っていただろう。だけど、今の私には死ぬことと同じくらい大きなある目的ができた。そして私が飛び降りた時も一ミリも表情を変えないことから確信した。


 この人はいつか私を殺してくれる、と。


「私の願いを叶えてくれるなら。」


そうして私は伸ばされた手を握りヴィーナスに入ることになった。


とは言っても、どうやら入隊試験というものを受けなければいけないらしい。


「ヴィーナスは誰でも入れるわけじゃない。誰かを失い、ハデスに対して強い悲しみや憎しみを抱えているものしか選ばれない。


お前は誰かを失った目をしている。別に誰を失ったのかは聞かないが、殺せる時に迷いが生まれれば、こちらが殺されることを覚えておけ。」


そう説明された時だった。突然パルがけたたましい声を上げた。


「緊急招集‼︎緊急招集‼︎


市街地3丁目にてハデス発生!被害者2名、その他負傷者不明。直ちに現場へ直行せよ。


繰り返す、直ちに市街地3丁目のハデスと被害者2名を抹殺せよ。」


先ほどまでの可愛らしい声とは打って変わって、機械のような声が流れた。


「チッ、またか。」


レオは小さく舌打ちをして何やら準備を始めた。白いワイシャツの上にきちっとした黒いベストを着て、ガンホルダーを装着する。近くの引き出しを開け、何やら金庫のようなものから黒いハンドガンを取り出して出口へと向かう。


私は黙って手早く準備をしているその光景を見ていた。するとレオは振り返って私を見る。


「入隊試験だ。来い。」


そう言われると、私はガタンと音を立てて立ち上がり、レオの開ける扉へと向かう。その日が私が初めて誰かを殺すことの恐怖を知った日だった。

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