Non ho volto
@twilight_tomato
Non ho volto
01 サックス奏者とテーラー
1995年3月3日
「よっす! デザイン画できた?」
今日、シンガポールを出航予定の豪華客船。楽園の名を冠するその客船の9階デッキ。
【Non ho volto】と書かれた看板、店先に並んだいくつかのトルソー、それから受付、それら全てを無視して、背の高い茶髪の男が店の奥の扉を勢いよく開けた。
「……扉を開ける前にノックしてください」
不満げに振り返る背筋の伸びた和服姿の男。彼には顔がついていない。――いや、“頭”はあるのだ。その頂には髪の毛もある。しかし、その下に目や鼻、口がない。
つまり、彼は日本で『のっぺらぼう』と呼ばれる妖怪の一人だった。
彼の名前は吾妻吾妻という。
彼は『のっぺらぼう』にして、この豪華客船アルカディック号の専属スーツブランド【Non ho volto】のオーナーでもある。
「そんな、スクォーラ・メディアのガキじゃあるまいし」
茶髪の男が肩を竦めたら、彼は手にしていた扇子ををぱちんと閉じて、それで茶髪の男を指した。
「貴方と私は他人です。それにここは私の仕事場です。他のお客様の採寸表や名簿を扱っていることもありますし、プライバシーに関わります。何より――」
「わかったわかった。次から気をつけるから」
「何が『次から気をつける』ですか。もう何度も聞きましたよ。貴方こそもう一度小学校にでも通われたらいかがですか」
その辛辣な言葉に男はペロリと舌を出す。
「まったく。そんな人にデザイン画なんて見せられないですね」
「ごめんってば」
茶髪の様子に、はあ、と小さくため息をついて、吾妻は作業机の上の棚から一冊のスケッチブックを取り出した。その表紙には『Meer』の文字。
『Meer』はこの船のエンターテイナー集団の一つ、ジャズバンドである。茶髪の男――ネロ・マテラッツィ――はそのバンドでテナーサックスをつとめている。吾妻とはこの船が就航する前、ひょんなことから知り合った、らしい。
「ジャケットデザイン、こんな感じでどうですか? たしか、アメリカ風がいいとか」
「ああ。折角アメリカに寄航するからな。ジャズの生まれ故郷には敬意を払っておかないと」
「そうだったんですか」
吾妻は頷いて、スケッチブックになにやら書き込んだ。それは吾妻の生まれ故郷、日本の言葉で書かれているから、イタリア生まれのネロには読めない。
スケッチはジャケットのみ。白テープで縁取りされた6つボタン3つがけのダブルのブレザー。
バンドメンバーはこれに各々好きなものを合わせて着こなす。スラックスをはいてくるやつもいればジーンズの奴もいるし、スカートのやつもいる。
「それでは、これを元に作っていきますね。採寸の日取りを決めたいのですが、皆さんご都合の良い日などはありますか?」
「確か6日の昼なら全員空いてたと思うんだけど、また確認してから連絡するよ」
「そうですか。それなら、一応6日の昼の予定は空けておきましょう」
吾妻はそう言いながらと手帳に予定を書き込んだ。
「んじゃ、また来るから」
「ええ。また」
吾妻は頷いてネロに手を振った。
ネロは服飾店街を抜けて、窓から外を眺めた。空模様は芳しくないが、雨が降るほど天気が悪いわけでもない。
奴と出会った日も、たしかこんな空だった、とネロは灰色の空を見つめた。
02 ネロ・マテラッツィと吾妻英二
今から3年前のことだ。当時Meerはイタリアのある音楽喫茶で演奏の仕事をしていた。
その時、バンドの衣装新調の話が持ち上がったのだ。切っ掛けは何だったか。確か、喫茶店のオーナーが提案してくれたとか、そんなものだった気がする。
その採寸時、テーラーの一人として喫茶店にやってきて、ネロの採寸を担当したのが吾妻だった。
当時吾妻は、今と同じく和服だったが前髪を長く伸ばして顔にかけていたし、眼鏡や帽子で影も作っていたから、採寸のため彼が近くに来るまで、その顔の異様さに気付くことは出来なかった。
「初めまして、テーラーの吾妻です。本日はよろしくお願いします」
バインダーを片手に頭を下げ、恐らく作業のためだろう、彼がヘアピンで前髪を上げたのだ。
その顔に、ネロは面食らったまま動けなかった。
「……すみませんね、驚かせてしまって」
吾妻が申し訳無さそうに肩を竦めた。
その姿がなんだかあわれっぽくて、ネロは思わず手を差し出した。
「……いいえ。俺は全く気にしてませんよ。こちらこそよろしくお願いします」
ネロの差し出した手が僅かに震えていたことに吾妻は気付いたのだろうが、それでも吾妻はその手を取った。
顔で笑えない吾妻の代わりに、それが引きつっているだろう事を自覚しながらも、ネロは全力の微笑みをその顔に浮かべた。
ジャケットの採寸だけだったので、それはかなり短時間のことだったと思う。しかし、その間に吾妻とネロはいくらかの言葉を交わし、その間にネロは吾妻になれて、吾妻のことをファーストネームで呼ぶまでになっていた。それは単に『アヅマ』より『エイジ』のほうが発音しやすい、という理由もあったのだが。
03 ネロと英二
ネロと吾妻が再会したのは、Meerの衣装作成から一年が経過してからだった。
それは本当に偶然、Meerの所属とは別の喫茶店で、異様に細長いパイプを使って煙を吸っている吾妻をネロが偶然見かけたのだ。
「久しぶり」
ネロは後ろから吾妻に声をかけた。彼は驚いたように肩を揺すったが、ネロだとわかると挨拶代わりだとでも言うように顔を上下させた。
「煙草、吸えるんだ」
「口みたいな機構がないわけじゃないですから」
吾妻はパイプから顔を離して言った。
「ふうん。煙草好き?」
「あまり好きではないです」
意外な答えだ。
「じゃあ何で?」
「兄から、煙管をもらったので」
「キセル?」
「この、細長いパイプのことです」
「へえ。……お兄さんがいるの?」
「ええ。日本で呉服屋をやっています。いつか世界をまたに駆ける呉服屋になってやるんだって言ってて。和裁の腕も、商才も、人とともに生きる術も持っている、自慢の兄です」
兄のことを話す吾妻は少し照れくさそうだった。
「お兄さんはいいけどさ。お前は? 何か、夢とかないの? やっぱ独立?」
「そうですね…………」
言うか言わないか、迷っているような沈黙だった。
「――実は、陸の上、以外で店を持ちたいんです。空でも、海でもいいから」
そして吾妻は、さっきより素早い動作で煙管の吸い口を、口のありそうなあたりに近づけた。
「貴方は? 何がしたいですか」
今度は吾妻がネロに尋ねた。
「俺? 俺は、そうだなあ。うーん……。サックスが吹ければ、何でもいいかな」
吾妻はその答えに少しだけ笑って、「そういうのもいいですね」と言った。
そのあとしばらく、二人は喫茶店で他愛もない話をしていた。
そのとき吾妻が、ネロのジャケットを見て言った。
「……おや? そのジャケット、サイドがほつれてますよ」
「マジ? 俺、結構動くからそのせいかも」
「動き回ってジャケットを傷めるって……子供みたいですね」
声に笑いを含ませながら、吾妻は着物の袖に手を入れた。
「繕いますよ」
吾妻が取り出したのはソーイングセットだった。
「あんまりたいしたことは出来ませんけど、やらないより良いでしょう」
吾妻は煙管に残った煙草の葉を灰皿に捨て、煙管を袖に放り込んで、針に糸を通した。
それから、どうしてか知った住所で何度か手紙のやり取りをして、吾妻が客船アルカディック号で【Non ho Volto】というスーツブランドを持って独立することを知った。彼のブランドの名前を知ったときネロは、手紙を読みながら一人でふきだしてしまった。『顔がない』という意味の言葉をブランド名に掲げるなんて、どうかしている。
ネロの所属するMeerが同じ船にクルーとして乗船することが決まるのはそのすぐ後のことだった。
04 思いつきとマンマ
1994年12月27日
船がイギリス・フェリックストーを発ってから五日、ネロと吾妻は二人で夕食を摂っていた。昼のサービスを生業とする吾妻と、夜のパフォーマンスを請け負ったネロ、二人がこんなに早く再会の杯を傾けられるのはほとんど奇跡だった。
「まさか英二と同じところで仕事するなんて、思ってもみなかった」
「私も話を聞いたときは驚きました。全く面白いものです」
汁物、魚、野菜と口をつけていく吾妻。食べ物が口のありそうな場所に近づいた瞬間に消えるように見えるのが面白くて、ネロはついついそれを眺めてしまう。
「貴方は私の食事を眺めて面白いのかもしれませんが、私はあまり良い気分ではないですね」
吾妻がたしなめると、ネロは肩を竦めて食事に集中するものの、少しするとまた食事の手が止まる。それを見咎められると、ネロはスプーンでラザニアをぐちゃぐちゃかき回しながら「だってさ……」ともごもご言い訳をした。
「食べ物で遊ばないでください」
「マンマみたいなこと言うなよ」
ネロは唇を尖らせる。
「言わせるほうが悪いんですよ」
吾妻は、ナイフとフォークで丁寧に魚を切り分けて口に運んだ。
「そう言えばさ」
ふと、何かを思いついたようにネロが言った。
「何です?」
「英二に、衣装を作って欲しいんだよ」
「私に?」
「そう。折角ブランドもって独立したんだしさ。俺たちも船に乗って心機一転、そろそろ新調しようかと思ってたんだ。英二なら適任だ。メンバーに話は通しておくから、な?」
突然の話に、吾妻は多少面食らったが、最終的にはネロの話に頷いた。
「とりあえず、見積もり出たら連絡くれるか? アメリカ寄航までに間に合うとありがたいんだが……」
アメリカ寄航、確か、3月末のはずだ。
「わかりました。いくつかオーダーが入っていますが、それまでなら。寧ろ、早く言ってくれて助かったくらいです」
「本当か? いや、良かった」
ネロが楽しそうに笑った。それにつられて、顔のない吾妻も笑ったのかもしれない。
05 バンドメンバーと採寸
1995年3月6日
その日の昼、Non ho Volto一番奥の採寸室には、Meerのメンバーと吾妻、それから数人のテーラーが集まっていた。
「はじめまして、Non ho voltoオーナーの吾妻英二と申します。本日はよろしくお願いいたします」
吾妻はメンバーに頭を下げるが、彼らは吾妻の顔を見て少々驚いたようだ。『少々』程度で済んだのは、この客船、チケットのある者ならば誰でも、いや、なんでも乗船可能、ということで、例えばグリフォンや妖狐なども乗船しているおかげで、この船に乗っている人は全員、「人以外の」に関しては慣れっこだからだ。
「ともかく、採寸を始めましょう」
吾妻とテーラー達は手分けしてバンドメンバー達の採寸にかかる。彼らの作業は手早く、ジャケット分だけとはいえ、数十分で全員分の採寸表が埋まってしまった。
「お疲れ様でした。それではこちらのサイズを元に衣装の作成に取り掛からせていただきます。納期はアメリカ・ホノルル寄航までとの事でしたので、完成は3月中旬以降になりますが、宜しいですか?」
吾妻の言葉に、Meerメンバーは皆一様に頷いた。
それから、楽器ごとに動きやすいほうが良い箇所などを伝達し、採寸は本当に終了した。
06 二人と寄港地
採寸から十日後。現在船は中国・上海から日本の横浜に向かっている。
ネロと吾妻はランチビュッフェで昼休憩をとっていた。
「そろそろ日本に着くけど、船降りたりするのか?」
ネロの質問に吾妻は首を横に振った。
故郷に、日本に、何の思い入れもないというわけでは勿論ない。――寧ろ、思い入れがあるからこそ、暫く、この先死ぬまでの暫くの間、きっと戻らないだろうと、吾妻はそう思っていた。
「貴方だって、イタリアで少し港に降りるとか、そんなこともしなかったでしょう?」
「まあ、そうだけどさ」
「それと同じです」
「そんなもんか?」
いぶかしげなネロの言葉に、吾妻は「でも」と返す。
「アメリカでは一度降りるつもりです。店を少し他のスタッフに任せて」
「なんでまたアメリカで?」
「兄がいるんです。ついこの間まで日本にいたらしいのですが、最近アメリカに新しく店を開いたそうで。それで、私が少しの間サンディエゴにいると言ったら、会いにきてくれるらしいのです」
「そりゃ良かった」
「ええ、とても楽しみです」
ネロは、吾妻の言葉を聞きながら、そういえば、この男が何かを楽しみにしているところなどあまり見たことがないな、と思っていた。
「貴方は、どこかに行ってみる予定は?」
「俺? 俺は特にないな。毎日演奏だし。これはこれでめちゃくちゃ楽しいぜ。充実の船上生活だ」
「そうですか」
吾妻は穏やかに「楽しそうで何より」と付け加える。
「あっ!」
ネロが時計を見て突然叫ぶ。
「どうしたんです?」
「いっけね、午後からでかい合わせがあるんだった! そんじゃ、また!」
慌しく机から離れるネロを、吾妻は、嵐みたいなやつだなあと思いながら見送った。
07 ――と――
数日前、船は横浜港を出発し、アメリカに向かう航路についた。現在は太平洋のど真ん中を航行中のはずだ。
吾妻は、Meerの衣装の最後の調整のため深夜にも関わらず、Non ho Volto店舗最奥の作業場にてトルソーと向かい合っていた。船首方面に位置するこの部屋の、窓の外では星が光っている。
糸切りバサミで糸を切り、これでほとんど終了。明日にでもテーラー同士でチェックを終わらせて、納品できるだろう、と満足して腰に手を当てた。――――その時。
どこからか、巨大な平手打ちのような音が聞こえて、その直後にドグッ、と腹の底に響くような嫌な揺れを感じた。
――――揺れ?
吾妻は自分に問いかけた。
――――そんなはずは、ない。
この船は自動で揺れを軽減するよう設計されているはずだ。大時化にでも巻き込まれない限り、人が感じるほどの揺れが起きるはずがない。
窓の外を見ても、相変わらず美しい星空が広がっているだけ。一体、何が……。
その時、無機質な放送音流れて、女性の声が続いた。
『乗船中の皆様にお知らせします。現在、船尾部にて原因不明の爆発事故が発生しました。乗客の皆様は、直ちに救命胴衣を装着し、落ち着いて救命艇乗り口の、16階デッキまで避難してください。エスカレーター、エレベーターは使用せずに、階段で避難してください。繰り返します。現在――』
吾妻の頭上から先ほどより大きな音がした。恐らく乗客がパニックになっているのだろう。吾妻は念のためにおいてあった出力の大きい非常灯と、船から支給されていたスピーカーを手に取った。
9階の店舗の防犯シャッターがほとんど降りていることを確認しながら階段へと急ぐ。こういうときでも火事場泥棒と言うのは現れるものだ。
シャッターのない大きなフロアは開きっぱなしだが仕方が無い。
階段へ向かいながら吾妻は、二匹の幻獣を見かけた。救命艇に向かうよう言おうかとも思ったが、どうやら彼らは彼らなりの考えがあるらしい。
何の妖力も無い『のっぺらぼう』と違って、彼らにはきっと何か特別な力があるのだろう。
吾妻は、人でごった返す廊下に出て、訓練通り避難誘導に参加する。
「押さないでください! 駆け足も駄目です! 絶対に戻らないで! 救命艇は16階です! 押さないで! 戻らないでください!」
スピーカーで声を張る。
「落ち着いてください。落ち着いて。この先の階段で16階まで上がってください。エレベーターはご利用いただけません!」
そのときまた、放送が入る。
『乗客の皆さん、落ち着いてください。爆発事故の原因は現在不明です。救命艇に向かってください。乗客全員分以上の救命艇がありますので、安心して、』
そこで、ブチッ、という音とともに放送が途切れ、一瞬後に全ての電気が消えた。
乗客から大きな悲鳴が上がる。
「痛い! 押さないでよ!」
「おい! 誰だこんなときにピンヒールなんて履いてるやつは!」
パニックになった乗客から罵声が上がる。
クルー達が非常灯を灯しはじめ、吾妻もそれに続く。明かりが確保されるとまた乗客たちは落ち着いたが、先のパニックで何人かが倒れて踏み潰されている。痛ましい光景だ。
「おさない、かけない、しゃべらない……か」
吾妻は母国の防災用語「お・か・し」を口の中で呟く。地震大国である母国のこの言葉が、どれだけ大切なことか、身にしみてわかった。
「皆さん、暫く明かりは確保できました。落ち着いて、どうか落ち着いて16階まで向かってください」
吾妻はスピーカーで声を張る。周りからも、英語を中心に様々な言語で同じような内容が続く。
「うるせえぞ! こんなときに落ち着いていられるか!」
吾妻の目の前の乗客が一人、声を張り上げた。吾妻はそちらに顔を向けてぴしゃりと言った。
「うるさいのは貴方ですよ」
普通、クルーが乗客にとる態度ではないからか、男が一瞬怯む。吾妻はそれをみて言葉を続けた。
「私は地震と火山の国から来ましたが、私の国では『おさない、かけない、しゃべらない』という意味の言葉を【スイーツ】という意味の語呂合わせで、小さな頃から叩き込まれます。非常時にパニックになることを織り込み済みで、そんなときでも思い出せるように、簡単な言葉で体にしみこませるのです。落ち着けないことなど最初からわかっています。ですから、今よりヒートアップするんじゃないと言っているんです。死にたいのなら、一人でなさい」
乗客は閉口する。顔のない吾妻の丁寧な口調には寧ろ凄みがあった。
やっと10階の乗客がはけてきたころ、吾妻はスタッフバッヂをつけた男に呼び止められた。
「吾妻さん、すみませんが、救護班の手伝いをお願いできますか? オフィサーの数人と連絡がつかなくて、人手が足りないんです」
「わかりました」
吾妻は頷いて、担架を4階の医務室まで運ぶ作業に参加した。
08 英二とネロ
爆破事故から一時間以上が過ぎた。どうやら事故があった船尾部がかなり浸水しているらしく、床が傾き始めた。先ほどオフィサーの会話を盗み聞きしたところによると、どうやらあと一時間もつかどうか、と言ったところらしい。
クルーは階級が低い分責任も低い。乗客とともに救命艇に乗る事だって可能だ。しかし、吾妻は初めから救命艇に乗るつもりはなかった。それは、この船に乗ったときから漠然と、しかしはっきりと決めていたことだった。
救護室で作業をしていると、キナ臭い話が漂ってきた。どうも、救命艇の半分以上が何者かによって破損させられていたらしく、乗客を全員乗せられるかどうか怪しいらしい。
どうやら、全く助かりそうにない。と、吾妻は思った。そして、自分の中に少しでも、助かるかもしれないという期待があったことに驚く。
いくら乗員乗客が異形のものに慣れているとはいえ、それは通常時の話であって、緊急時は別だ。ヒトは、ヒトの命を優先する。
そのことに関して、吾妻は特に何も感じない。その事実がそういうものとしてそこに横たわっているだけだ。そこには驚きも悲しみも憎しみも、ない。
悪あがきはしない。それは、この船に乗るときから決めていたことだ。
吾妻はそっと救護室を抜け出した。
9階に戻ろう。あの店は船首部にあるから、きっとまだ無事なはずだ。
ゆっくりと、無人になった階段をのぼっていると、後ろから突然声がした。
「英二!」
吾妻はふりかえって、息を飲んだ。
そこにいたのはネロだった。
「何してるんだ、逃げないのか!」
ネロは息を弾ませていた。
「貴方こそ、どうして?」
吾妻はつとめて冷静に、ネロに質問しかえす。
「俺は、救命艇に乗るクルーの列にお前がいなかったから……」
吾妻は、その言葉に少しだけ笑った。
「馬鹿ですね。一人で逃げればよかったのに」
「置いていけるわけないだろ」
ネロの言葉には、「何を言っているんだ」と言いたげな響きがある。それでも、吾妻にはネロとともに行く気はなかった。
「逃げたいのなら、早くしたほうがいいですよ。先ほど、オフィサーの会話を聞いたところによると、どうやら救命艇の数が足りないようですから」
「なっ――――何でだよ! この船の乗船定員の倍近くあったはずだろ?」
狼狽するネロとは対照的に、吾妻は静かだった。
「私も詳しくは知らないのですが、オフィサーたちの見解では、どうやら、何者かによる意図的な犯行ではないか、とのことです」
ネロは驚きと、恐らく怒りで言葉を失った。
吾妻はそんなネロに向かって言った。
「救護室や、各階にまだ怪我人がいます。私は、彼らの手助けをします」
この男に、船を降りるつもりがないことのわけを話すつもりはなかった。言葉にして伝えられる余裕もなかった。
「……俺たちクルーに義務はないだろ?」
「義務はないけれど、私はこの船に乗ると決めた日に、乗客のために尽力することを決めました。でもそれは、貴方に強要されるべきことではない」
吾妻は、顔のない顔で、ネロを正面から見つめた。
ネロがすっと息を吸って、吾妻に聞く。
「……いきたくないのか」
吾妻は、それに答えなかった。答えの代わりに、着ていた羽織を脱いで手に持つ。
「もしよかったら、なのですが。私の羽織を、持っていってもらえませんか。もしアメリカに行くことがあれば、それをもって【吾妻】という呉服屋――ブランドを、訪ねてください。この羽織は、そこのオーナーの作品です。それを、彼に届けてください」
吾妻は、手に持ったネロに投げた。
「…………」
ネロは、若干困惑したようにその手の中の上質な絹の羽織を握った。それを自分が受け取る意味がわからなかった。――否、わかりたくなかった。
「……一緒に、来ないのか、本当に」
「……はい」
吾妻は頷き、穏やかな声でネロに避難を促す。
「……いくのか」
「はい」
「……いくのか」
念を押すように、もう一度。
「はい」
ネロは、吾妻の羽織を身につけた。たぶん、何かを持ったままで救命艇には乗れない。洋装に羽織という珍妙な格好を、吾妻は少し笑った。
「さようなら、ネロ」
ネロは少し黙って、「Ci vediamo(さようなら)」と言った。
「ええ。また」
ネロは吾妻に背をむけ、階段を上がっていった。その背中に、吾妻はイタリア語で、「Stammi bene(さようなら)」と呟いた。
吾妻は、廊下で人に踏まれた人を抱えて救護室に向かう。「やることがある」と言った手前である。
「利用してしまって申し訳ありませんね」
吾妻はもうたぶん助からないであろうその人に話しかけた。
08 吾妻 英二
ネロと別れてからもう三十分以上が経過している。吾妻はネロのための衣装だけを持ち出して、甲板に立っていた。
深夜の海は真っ黒で、吸い込まれてしまいそうだ。――否、今から吸い込まれるのだ。
部屋の中にいて、水に埋め尽くされて死ぬのはごめんだと思って甲板に上がった。甲板には数十人の乗組員と乗客が残されていた。他はおそらくもういないのだ。無事に救命艇に乗れたか、あるいは。
甲板の上に、ネロを見つけることはできなかった。
吾妻は、黒く透明な海を見つめた。藍の汁をぶちまけた空に開いた無数の針の孔を見つめた。そして、その境界の、なんともいえぬ群青を。
水が押し寄せてくる。足の先が太平洋の冷たい塩水に触れた。
うみに飲まれ、全身が冷たかった。
顔を上にして浮かび、目の前には満天の星空。
冷たい、冷たい春の海に、手足が痺れ感覚がなくなる。末端から海にとけるようだった。
指先、手のひら、足首、腕、脛、腿。
だんだん、だんだん自分が無くなる。
そして最後にゆっくりと打つ心臓を残すのみとなった。
吾妻は思う。たとえ、救命艇に余裕があったとしても、人は自分をなかまとして受け入れ、ともに助かることを快く思ってくれることはないのだろう、と。
それについても、とくにどう、と言うことはなかったのだが、しかし、どうやらそれが、自分がこの船を降りる気がなかったことの、本当の理由らしいということに、吾妻は今さらながら気付いた。
子供じみた、陳腐な理由だ。
――――しかし、私は、きっと、この日を、この日だけをずっと待っていた気がする。この日を迎えるために、船に、乗ったのだという気さえ。
しかし、それでも。良い人生だったと思う。
呉服屋に生まれ、憧れの兄とともに暮らした。人目から隠れがちな生活だったが、それも楽しかった。
和裁の家から出て、洋裁を学んだ。イタリアで修行を積んだ。師匠や、その友人の人形師にはよくしてもらったし、ともに腕を磨いた兄弟弟子もいた。そして、船の上でオリジナルブランドを持つことができた。地上以外で店を構えるという夢が叶った。
とけたはずの唇が動いた。
「何もかも、楽しかったけれど。――貴方に、手をとってもらえたあの時、本当に嬉しかったんです」
茶髪のサックス奏者の顔が浮かんだ。
幼少期、たまに会った子供達、師匠、人形師、兄弟弟子。吾妻は彼らと、握手をしたことがなかった。日本の外に出てからそれは、もっと一般的なことはであったずなのに。
とけたはずの耳が、奴の言葉を再生した。
『Ci vediamo』――またね、だったか。
『Addio(永遠にさようなら)』
それが、出てこなかった。
出てきたのは、「Stammi bene」――私のために、元気でいてください、と、それだけ。
ドクッ、と蕩けかけの心臓が震えた。この日が、あと一日遅ければ。そう、思ってしまった。
冷たくて冷たくて、とけてしまったはずなのに、心の臓だけが熱い。
――だとしても、もう、駄目だ。眠くて仕方が無い。きっとこれは、海の妖力だ。全部全部貪欲に飲み込んで、とかしてしまう、海の。
吾妻は、目の前に漂う星を見た。瞼がとけたから、目が閉じられないのだと思う。
彼の衣装も、それから【Non ho volto】の看板も、とけてしまっただろう。そして、私もこのまま。
楽園の豪華客船、その夢を飲み込んだ真っ黒の海はただ静かに波立っている。
Non ho volto @twilight_tomato
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