03-01「Jane Doe」




 グラスを満たす琥珀色に、波紋が立つ。

 傍らでボトル片手に控えていた男が、視界の隅で身体を固くさせるのが見えた。


「――返り討ちにあった、だと? お前が、率いていたのに?」


 低い声が出た。

 それで、場の空気はいっそう重くなる。

 ソファに腰掛ける自分の手前で、項垂うなだれたように膝をついている部下を見遣って、胡雷天はグラスをテーブルに戻した。


「ただの子供だろう?」

「もうひとり、手練れの護衛を雇ったようでした。囲んだこちらの四人を、一瞬で制圧できるほどの」

「女学生が、護衛を雇うのか。どんな町だ、ここは」

「学園の警備も、ただのセキュリティ会社とは思えません。あの学校は、異常です」


 あごひげを擦りながら、胡雷天は二の句に迷った。

 とにかく、膝をついたままの女――姚月琦に、楽にしていいと告げる。

 周囲の反応はともかく、胡雷天は部下の失敗に怒っているわけではない。

 ただ、にわかには信じられない報告を聞いて、戸惑っているだけだ。

 連れてきた部下の中で、もっとも信頼できるのがこの姚月琦だった。

 若いが、武術の腕前は一世代上の者と比べても引けを取らず、また頭も回る。

 任された仕事に失敗したからといって、大げさに騒ぎ立てるような女ではない。

 つまり、報告はすべて正しい。


「何者だ、その護衛とやらは?」

「こちら側の気配をまとった、眼付きの悪い少女です。何より、銃の扱いに迷いがありませんでした。本職でしょう」

「お前と、互角に打ち合ったといったな?」

「年下に土をつけられたのは、初めてです。武術の覚えがあるというわけではなさそうでしたが……荒事に慣れた、場数を踏んだ者の動きには見えました」

「厄介だな。兎狩りの最中に、狼に出くわしたか。勢子せこも食われてしまった」

「私が――」

「いや、予想外のことだ。万全でない状態で仕掛けて、上手くいかなかった。そういう時は、ひとりの頑張りでどうにかなるものでもない」


 姚月琦のとっさに出た言葉を、胡雷天はそれ以上続けさせなかった。

 気持ちは分かる。

 結果的に、手下を見捨てる形で、ひとり逃げ帰ってきたのだ。

 しかも、焦りからとはいえ相手の一撃をもらってのことである。

 相当に屈辱と自責の念を抱いているのだろうが、胡雷天にとっては、あえて断罪しようという気になるほどの失態ではない。


 胡雷天が掛けた言葉は、信頼する部下へのなぐさめも多少は含まれていたが、長らくこの稼業に身を置いてきた経験則でもあった。

 少しでも状況が変わったと判断すれば、すぐに見切りをつけた方がいい。

 それが出来ない者は、どれだけ有能でも簡単に死んでしまう世界なのだ。

 これで相手の戦力を知れたと思えば、生きて戻ってきた姚月琦は最低限の仕事をしたことになる。

 ならば、後悔も反省も、本人の胸の内だけのことだ。


「次の手を打つぞ。地元の警察には鼻薬をがせてあるが、あまり長引かせたくもない」


 切り替えろ、と胡雷天は暗に言ったつもりだった。

 今のところ、警察も、自分が手を掛けた男の属していた組織にも、特に動きはない。

 男の屍体すら見つかっていないのだ。

 おそらくは通報しただろう子供を無視する程度には、この町の警察は話が分かるらしい。


 かといって、油断もしていられない。

 事が露見すれば、明日にでもくだんの組織が自分たちに仕掛けて来ておかしくはない状況である。

 いざという荒事に対処できるよう、なるべく兵力は分散させたくない、というのが胡雷天の、そして部下たちの本音だ。

 単なる目撃者に過ぎない――しかも、既に複数の部外者に知られている――子供に、いつまでも構ってはいられなかった。


「私が、もう一度学園に潜入してみます」

「難しいな。向こうも警戒を強めているだろう。腕の立つ護衛に加えて、周りには学園の警備も動員されているはずだ。お前といえど、そう簡単には狙えまい」

「あくまで潜入です。頭数が減れば、それだけ気付かれにくくなります。私ひとりなら、入るのも容易い」

「それは、そうだが。上手く接近できたとしても、ひとりでは護衛が厄介だぞ」

「先ほどは子供を連れ出そうとして手間取りました。次は、口を封じることだけに専念します」


 姚月琦が、眼を逸らすことなく言った。

 まさしく刺客として、暗殺に出ようというのだ。

 今度は見つけ次第、問答無用で殺す、と。

 確かに手っ取り早く、また成算もそれなりに見込める手段ではある。

 姚月琦の腕前からすれば、さらに確率は上がるだろう。

 だがそれは、帰還を考慮しない鉄砲玉としてなら、という話だ。

 一度失敗しているだけに、不意打ちの効果も薄い。

 警戒する相手に強行しても、良くて相討ち、最悪の場合は寸前に気付かれて返り討ちに遭うかもしれない。

 はした金で雇ったチンピラにやらせるならともかく、腹心の部下を荊軻として送り出すほど切羽詰まった状況でも、ふさわしい相手とも思えない。


 頑として跳ね退けた胡雷天に、姚月琦は視線を落とした。

 焦りを殺し切れていないのは、一目でわかる。

 若さが良くない方に出ている、と告げると、また恥ずかし気に俯く。

 困ったものだ、とグラスに口を付けた胡雷天へ、部屋の片隅から声が上がった。


「自分は、そう悪くない手かと」


 野暮ったい黒のスーツをだらしなく着こなしている。

 およそ喜怒哀楽のすべてにおいて眼の死んでいる若衆で、荒事よりも相談相手に向いている男だ。

 どういうつもりか、と顔を向けた胡雷天に、男が続ける。


「問題なのは、姚の姐さんが出向こうってところでしょうかね。それこそ、使い捨てにして構わねえって輩が、あっしらにゃ居るじゃあござんせんか」


 抑揚ってものがない。

 何のことを言っているのか、と束の間考えて、胡雷天は思い至った。

 黄地会が外国へ進出する先駆けとしてこの町に送り込まれた時、親分たちから餞別だと押し付けられたものがあった。

 自分としては不要だと思ったし、実際に今に至るまで存在も失念し掛けていたほどだが、かといって突き返すわけにもいかない。

 使い慣れないものは用いようとしない性質な胡雷天は、正直のところ持て余していたところだ。


「確かに、使い道か」

「で、ござんしょう? 狼を駆除するには、虎を走らせればよござんす」

「できれば、共食いで倒れてくれた方が都合がいいんだがな」

「それも、成算の内かと。ねえ、姐さん?」

「……それでいいだろう。大哥も、乗り気のようだし」


 面白くなさそうに、姚月琦が返した。


「決まりだな。――名無しの女Jane Doe、を呼んでこい」


 部屋を出ていく部下の背中を見遣って、グラスを呷る。

 中身が空だと気付いた時には、姚月琦が不服そうな表情でボトルを手に取っていた。




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