暗がりの駅

坂井とーが

暗がりの駅

 金曜の夜ということもあって、俺は部下を連れて飲みに行った。

 何軒かはしごして酒を飲むと、帰るころには終電の時間になっていた。


 遅い時間だから、電車はすいている。

 俺はソファの端に腰を下ろして、左側の手すりにもたれた。

 一週間の疲れがたまっているのと、少し酔っていることもあって、すぐに眠くなってきた。

 俺の最寄り駅は、この路線の終点だ。寝過ごす心配はない。


 うとうとしていると、1時間足らずの乗車時間など、ほんの一瞬に感じられた。


「まもなく、××。××。終点です。お出口は右側です」


 俺は夢うつつで、終着駅を告げる自動音声のアナウンスを聞いた。

 電車が停まると、残っていた乗客たちが立ち上がり、ぞろぞろと車両から降りていく。

 俺もここで降りなければならない。そう思うが、なかなかまぶたを持ち上げられなかった。

 どうしても眠気に逆らえない。


 まあいい。終点なのだから、最後には駅員が起こしてくれるだろう。


 俺は睡魔に負けて、心地よい眠りに身を任せた。





 どれだけ時間が経っただろう。


 ふと目を開けると、周囲は何も見えない真っ暗闇に包まれていた。

 電車の走る音が聞こえ、体には規則的な揺れが伝わってくる。


 状況を理解すると、とたんに眠気が吹き飛んだ。

 どうやら俺は、電車に乗ったまま車庫に運ばれているらしい。


 駅員め、寝ている俺に気がつかなかったのか。


 俺は悪態をつきながら、カバンからスマホを出した。

 鉄道会社に連絡するつもりだった。

 長く暗闇の中にいたせいで、画面は想像以上に眩しい。俺は思わず片手で目を覆った。


 瞬きを繰り返しながら少しずつ目を慣らしていくと、視界の端に人影が見えた。

 

 隣に誰かいる。


 そのことに気づいて、俺は凍りついた。


 いや、隣だけではない。

 画面の小さな明かりに照らされた範囲に、何人もの人の姿が見えた。

 俺と同じようにスーツを着ている者もいれば、私服を着ている者もいる。


 電車は多くの乗客でひしめき合っていたのだ。


 俺は冷や汗をかきながら、横目で隣の人影を確認した。

 腕が触れあうほどの距離に、スーツを着た中年の男が座っている。

 

 明かりをつけてみるまで、まったく気づかなかった。

 人の気配などしなかったのだ。話し声はおろか、身じろぎする衣擦れの音さえしない。

 しかも、こんな暗闇の中だというのに、スマホを見ている人はひとりもいなかった。

 

 俺はパニックになりかけていた。

 なぜ車庫に向かう最終電車に、これだけ多くの人が乗っているというのか。


 ありえない。


 パニックの末、頭に浮かんだのはなぜか、警察を呼ぶことだった。

 しかし、スマホには圏外という小さな文字が表示されている。


 俺はスマホの画面に目を落としたまま、身じろぎひとつできなくなった。

 音を出したり動いたりしたら、周囲の乗客たちに見つかってしまうような気がしたのだ。

 スマホの明かりはもうつけているくせに、おかしな話だが。

 

 やがて、静かな車両の中にアナウンスが流れた。

「次は、いみやま。いみやまに停まります」

 スピーカーから流れてきたのは、男の声だった。いつもの自動音声ではない。


 その駅名は、聞いたこともないものだった。

 地下鉄に乗って見ず知らずの土地まで行ってしまうことなど、普通ならば考えられないのだが。


 電車は徐々に速度を落としていく。

 車庫に戻るだけの回送電車が、いったいどこに停まるというのか。


 俺は不安を感じながらも、向かい側のドアから目が離せなかった。


 やがて停車した駅のホームは真っ暗だった。

 ドアが開くと、何人かの乗客が立ち上がり、静かに電車を降りていく。

 足音を立てる者はひとりもいなかった。


 明かりひとつないホームに出て行った彼らは、迷いのない足取りで暗闇の奥へと進んでいく。

 彼らが向かう先には、どうやら階段があるらしく、下に降りていく乗客たちの背中を目で追うことができた。


 乗客が降りていっても、新たに乗ってくる者はいなかった。

 ホームは初めから無人で、そこに電車を待つ人の姿はなかったのだ。


 しばらくするとドアが閉まり、電車は再び走り出した。

 乗客はさきほどよりいくらか減っている。

 立っていた者は、静かに移動して空いた座席に座った。


 そのまま乗っていると、またしても知らない駅名が告げられた。

「次は、さんのせ。さんのせに停まります」

 アナウンスを聞きながら、俺はこの電車から降りるべきかと考えた。


 電車や乗客たちがこの世のものではないということは、すでに確信している。

 このまま乗っていれば、どこに運ばれるかわかったものではない。


 だが、あの真っ暗な駅で降りることを考えると、どうしても足が動かなかった。

 ホームの階段を下りると、どこに辿り着くのだろう。

 少なくとも、地上に出られるようには見えない。

 もし、降りた駅でどこを探しても出口が見つからなければ……。


 俺はどうしても電車を降りることができなかった。

 暗がりの駅に足を踏み出す勇気が持てなかったのだ。


 そうしているうちに、電車はいくつもの駅で停車し、そのたびに乗客たちが降りていった。

 どこの駅でも、新たに乗ってくる者はいない。


 画面を付けっぱなしにしていたスマホの電池は、刻一刻と減っていく。

 これがゼロになってしまえば、必要なときに周囲を照らすことも、電波が繋がる場所で助けを求めることもできない。

 俺は暗闇の恐怖に怯えながらも、節約のために明かりを消した。


 周囲が闇に包まれる。


 目で見なければ、この電車に人が乗っている気配を感じることはできなかった。

 俺のすぐ隣には男が座っているはずなのに、そいつの息づかいさえ聞こえない。

 間違っても肘が当たってしまわないようにと、俺は体をこわばらせた。


 通過した駅の数もわからなくなった頃、停車駅を告げるアナウンスの内容が変わった。


「次は終点、えな。えなに停まります」


 終点に着けばこの電車から降りられるのではないかという、希望が生まれた。

 しかし同時に、終点もこれまでと同じような暗がりの駅だったらどうしようかという恐れもあった。


 電車が速度を落とす。


 停車した駅は、やはり真っ暗だった。


「終点、えなでございます。お忘れ物のないようにお降りください」


 そのアナウンスを聞いて、わずかな希望も打ち砕かれた。

 これで最後と思い、節約していたライトを付ける。

 俺は光に目を慣らしながら、周囲の様子をうかがった。


 車内に残っている人の姿はない。

 隣にいたはずの男は、ソファをきしませることもなく席を立ったようだ。

 恐る恐るホームの方を照らしてみると、最後の乗客が階段を下りていくところだった。


 ホームはどこまでも真っ暗で、自動販売機も看板もない。

 ほかの乗客たちを追いかけて階段を下りれば、どこに行き着くのかわからなかった。

 時刻は午前2時半。相変わらず圏外のままだ。


 俺は無人になった車両の中で頭を抱えた。

 いったい何を間違えて、こんな場所に迷い込んでしまったというのか。


 俺がその場から動けずにいると、不意に前の車両との連結部分の扉が開いた。


 はっとしてそちらを見ると、青っぽい制服の足元が見えた。

 目を合わせてはいけない気がして、俺はとっさに顔を伏せた。


「お客さん、降りてください。終点ですよ」


 アナウンスと同じ声だ。この電車の車掌だろうか。

 しかし、それが普通の人間かどうかわからない。

 俺は怖くて顔も上げられず、車掌の足元を見たまま答えた。


「××駅で降りそこなったんです。助けてください」

「困りましたね、お客さん。その駅には、もう戻れないんですよ」

「戻れない?」

「降りてください」


 車掌は淡々と繰り返した。


「勘弁してください。真っ暗じゃないですか」

「終点です。降りてください」

「あの先に何があるんですか。私は家に帰れるんですか」

「お客さん、降りてください」


 やりとりを続けるうちに、俺は何があってもここで降りてはならない気がしてきた。


 俺は絶対に降りないぞ。

 そう思っていると、車掌がかがみ込んで、俺の顔をのぞき込もうとしてきた。


 そいつと目を合わせるのが怖い。


 だが、俺の体は石のようにかたまっており、まぶたを閉じることさえできなかった。


 車掌が、正面から俺の顔をのぞき込む。

 その瞬間、スマホのライトがふっと消えた。

 辺りは暗闇に包まれ、いっさい何も見えなくなる。


 誰の気配もしなかった。

 だが、目と鼻の先の暗闇からは、おそらく車掌が俺の顔をのぞき込んでいる。


 俺は恐怖で気が遠くなり、そのまま意識を失った。





「お客さん、お客さん」


 俺は肩をゆすられて目を覚ました。

 気が付くと、スマホを握りしめたまま堅い床の上に倒れていた。周囲は明るくなっている。


「お客さん、大丈夫ですか?」

 俺を起こしたのは、ごく普通の駅員だった。


「ここはどこですか」

「○○の車庫ですよ。お客さん、間違えて終電に乗ってしまったんですね。出勤したら人が倒れてるんで、驚きましたよ」


 ○○とは、俺の最寄り駅からさほど遠くない、聞き慣れた地名だ。

 ほっとして、肩から力が抜けていった。


「終電で寝過ごしてしまったんです」

 俺が言うと、駅員は首をかしげた。

「そうですか? 終点に停まったときには、寝ている人がいないか確認して回るんですけどね」

「いえ、俺は起こされませんでしたよ。しかも、それからの停車駅が真っ暗だから、もう怖くて怖くて」

「いやいや、回送電車がどこかの駅で停まるなんてこと、ありませんって。さてはお客さん、飲んでたんでしょう?」


 たしかに酒は飲んでいたが、決して泥酔していたわけではない。

 しかし、その電車に多くの乗客がいたなどと言い出しても、信じてもらえないだろう。

 

 俺は諦めて電車を降り、妻に連絡を取ろうとスマホのボタンを押した。


 電池は切れていた。


 思い返せば、あの車掌に顔をのぞき込まれる直前で、スマホの電池が切れたのだった。

 終電に乗り込んだときには、一晩くらいで切れる残量ではなかったのに。


 真っ暗な画面を見ていると、昨夜の出来事が夢ではなかったのだという実感がわいてきた。




 あの体験が何だったのか、結局わからないままだ。

 

 もしあのときどこかの駅で降りていたら、俺はどうなっていたのだろう。


 今でも、電車に乗っていてときどき不安になることがある。

 ここにいるのは果たして生きた人間ばかりだろうか、と。

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