第5話 神楽舞
お兄ちゃんが早々と帰宅したんだ。
早い。
まだ五時半なのに。いつもはだいたい七時前に帰ってくるのによほど調子が悪いのだろう。
高校二年生になってからは下手をすると夜の九時前に帰ってくる日もあった。
「どけよ」
私は本を持って一階に降りようと階段を踏んだ。
「いいな、大学受験に縁がないやつは! 俺の苦しみも分かりもしない。だから、こんな早い時間帯から本でも読めるんだよ! 学校もクソ早くに終わるし、俺の中学時代と全然違うわ」
怒号を浴びながらいつも、こうだ、と私は苦虫を噛み潰したように冷ややかに見た。
私はこういう時はあえて、返事しないのに尽きる。
「よく来られたな。俺はやめてないぞ。さすがに」
今日も保健室で終日、過ごしたんだ。
お兄ちゃんこそ、まともに学校に行けないくせに偉そうな言い草をだらだらと吐くんだ。
先日、夜更けにお兄ちゃんがお母さんを面罵して、家中が張り詰めた空気なったけど、その張り付くような緊張感が海面に海月がぷかぷかと漂うように纏わりつく毎日ももう、慣れた。
今日は神楽が舞われる特別な晴れの日だ。
凍てつくように罅割れた頬が冷たい。
早朝には初霜が降りていたし、体操選手が軽々と逆立ちでもするかのように霜柱が地面から、ニョキニョキと木立闇に生える夜光茸のように生えていた。
お兄ちゃんも彼みたいに進んで難解な教養的な本を読めば、受験にも役に立つんじゃないの、と正直なところ、思う。
お兄ちゃんが家に滞在していると心情的に気まずいから、私は御池のほうへ寒空の下の月夜の散歩に出かける。
湖なのに御池という名前。湖は湖でも太古の昔、地球上の地殻変動によって火山が噴火し、その火口の窪地が冷えて固まり、長い間、降り続いた雨水が溜まってできた、世にも珍しい火口湖らしい。
この皇子港という湖畔の岸辺で日嗣の御子、狭野尊が水遊びをされていた、という、古い伝承が残っている。
お父さんから何度もその真偽も定かではない、日本有数の神聖な言い伝えは耳に胼胝ができるほど、小耳に挟んだ。
お父さんは今年、舞い手として祓川神楽の演目を舞うんだろうか。
ここ数年はお兄ちゃんの進路に専念してそれどころじゃなかったから、裏方仕事の手伝いだけはするかもしれない。
恵風を浴びながら麗らかな桜花が綻ぶ、弥生の時節に萌え出でる山野を駆け回る、光り輝く御髪の皇子さま。どんなふうに駆け回っていたのかな、と私は想像力を発揮する。
今でも奥深い山脈だから大昔はもっと、高貴な森は峻厳だったんじゃないかな、と結論付ける。
小さい頃は、今よりも純度の高いメルヘンチックな空想噺を御池の岸辺で翡翠を見ながら巡らせていた。
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