第2話 倫太郎って…。
殺風景な部屋のベッドに座り込み、小さな窓から、外の景色を見てみる。大きな電波塔と、それを頂点に正三角形を描くように山の稜線が見える。ちょうど夕暮れ時で、カラスか何かの群れが飛んでいるのが見えた。この牧歌的と見える風景も玲美の目には入らない。玲美の思う事はここから出して欲しいのひとつだけ。私は悪いことは何もしていない。医者はこのままでは命にかかわりますよとかいうけど…。自分の理想のスタイルか、医者の言う事か、どちらが正しいのか分からなくなる。確かに洗剤を食べるのは異常だと思う。少しだけね。なんとかそれは分かる。だけど気づいたのだ。洗剤を食べることが唯一の今の救いなのだと。のっぺりとした保護室には本当に何の刺激もなく、空虚の中で過ごすのに気が狂いそうだった。数少ない、保護室から出られる洗濯の時間があり、そのチャンスにふと、ほんとに発作的に一口舐めてみたのが始まりだった。何か口に入れたかった。病院食の三食しか食べていない。他に何か食べられそうなのは洗剤だと。空虚を埋めてくれるものだった。気づいたら止まらない。粉末洗剤から液体洗剤まで飲んでは吐いて、食べては吐いての繰り返しだ。この前は嘔吐物が洗剤の泡を吹いていたのには笑った。
医者はよく「食べては吐いての繰り返しの典型的な摂食依存をしている」と言う。でも吐いた時の、悪いものを出し切ったという感はやめられないし、また理想のスタイルに近づいたという達成感も病みつきだ。つまり吐きたいために洗剤を食べるのかも知れない。
そろそろ食事の時間だ。病院食はしっかり食べる。吐くのは洗剤だけ。病院食は決して吐かない。毎日体重測定があるからだ。値は教えてくれない。はがゆいが、最低限食べていい子にしておかないと退院できないらしい。どうやら。逆に言えばここ(保護室)を出れば、いつでも退院できるそうだ。洗剤のことはばれていない。保護室での苦しみから解放される手段として、洗剤を食べると言うことは我ながらよく考えられた素晴らしいアイデアだった。
食事を食べて血糖値が上がってきたからか、いろんな考えがよぎってきた。もやが晴れた気分だ。家族の事、友人の事、そしてなによりも大事なひと「倫太郎」の事。やせ細っていた時期、一番心配そうにしていたのは倫太郎だった。早く退院して元気になった姿を見せたい。大きな体でギューッとして欲しい。
それはそれ、これはこれ。さて、食後の洗剤はどうしようかな。「食後の洗剤」なんて言葉、私しか使わないだろう。笑えてくる。もう食後2時間は経っているし、消化されているでしょ。アタックは飽きたし、液体のボールドにしようかな。玲美は病棟のランドリーになぜか忘れっぱなしになっているコップに、柔軟剤を注ぎ込み、ゴクゴクと一気に喉に流し込んだ。途端にせき込むような嘔吐感と、ひりつくような喉の灼熱感が襲った。自室にもどり、トイレに駆け込んだ。嘔吐は30分以上続き、疲れと脱水症状で玲美の意識はもうろうとなっていた。
「もう何もかもどうでもいい。治療なんかしなくていい。どうせ私なんて、いなくても誰も気にしない。でも…誰かいたような…。倫太郎、倫太郎かあ。でも、だめ。だめだ。倫太郎だってどうせ実在しない人なんだよ。私みたいなやつにいい人なんていない。多分イマジナリーフレンドってやつだよ、きっと。こんな自分生きている価値ないんじゃないかなあ。っていうか、気持ち悪すぎる。もう絶対洗剤なんて飲まない。」嗚咽とともに涙がこぼれた。その涙ははきれいになりたいと言う、玲美の体を映してはくれなかった。
もうそろそろ看護師の巡回の時間だ。トイレをきれいにしないと。痕跡が残らないように。吐いた後はうつのような気分になる。またやっちゃったなあって。自分がちっぽけで価値のない人間に思える。おまけに処方される薬がつらい。頭がベールに包まれたようになり、記憶もあいまいになる。ああ、倫太郎は実在しているのか?友達なのか恋人なのか?それとも記憶違いか。すべてがおぼろげで、それがまた恐怖を誘う。確かなのは倫太郎という名前だけ。倫太郎がいるのか、はっきりするのはここから退院した時なのだ。退院したら絶対食事は吐かない。倫太郎に嫌われたくないから。でも時には洗剤は食べるかも。
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