第10話
金持ちが嫌いだ。世の中は金じゃないと金持ちが言う。それがあるかないかだけで人生が狂うのにまるで重要ではないものかのように金持ちが言う。許せない。許せない。許せない。
何事もうまく行かず友も居らずもうすることといえば死ぬしかないおれに向かって勝ち誇り言っているのか。
だったら死ぬ前により多くの金持ちを道連れにして殺してしまえ。
そう決めた俺は山深くの別荘地の駅を降りた。前回は大きめの別荘地を標的にしてしまったため発見が早かった。このくらいの規模の方が殺しやすいだろう。
幸運にも庭師を募集していた金持ちがいたので、吐き気を催しながらも笑顔を作って雇用してもらった。
「この別荘のお嬢様は特に庭の薔薇園がお好きだから、丁寧に手入れをしておくれ」
「はい、かしこまりました」
自分の薔薇園などを持っているのか。殺しがいがありそうだ。
庭の小屋は自由に使っていいと言われたので、殺人道具などはそこに置いておくことにした。
***
「お嬢様! 心配いたしました、朝食も召し上がらずにどこへお出でだったんです」
「心配をかけてごめんなさいね。いつもの友人のところよ」
「全くです。殺人犯が潜んでいるのですよ、今度からは、行き帰りはメイドを同伴させてください」
「可能性がある、というだけのお話でしょう? まだ確定していないんだから、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
動きづらくなったわ、と思いながら、有李華は思案した。
今度からは、こっそり抜け出すか紫陽花の小道の入り口まで付いてきてもらうかにしよう、と結論を出す。
「わたし、いつも友人とは湖の畔の四阿で会っているの。だから、その入口まででいいわ。帰りは八時に入り口まで戻るから」
「湖なんてこの別荘地には……」
「そう思うでしょう? でもあったのよ。恋ヶ淵と呼ばれているらしいわ。ああ、あと、送ってくれる時メイドは二人以上にしてね。じゃないと別荘にメイドが帰るときに一人きりになってしまうでしょう? メイドが狙われないとも限らないのだから。その間、屋敷は貴方と由利さんが二人だから大丈夫よね」
「かしこまりました。とにかく、お気をつけくださいね」
***
その日は、朝食も昼食も食べられなかったが夕食は食べることができた。
仮説を立てる。蒼夜と長く過ごすごとに食事が喉を通らなくなっていく傾向にある。これは事実だ。では何故なのか? それはわからない。蒼夜の数多ある謎のうちのひとつだ。
蒼夜は今何をしているのだろうか。
月でも見ているのだろうか。
あの恋ヶ淵の畔で。
どうしても会いたくなってしまって、有李華はお風呂を上がったらこっそり逢いに行くことにした。
***
ドライヤーで髪を乾かして、椿油を櫛に染み込ませてじっくりと手入れして、ネグリジェワンピースの上にカーディガンを羽織った有李華は、寝静まった家を抜け出した。
夜の薔薇園は霧の中でもきれいだった。
少し庭を歩く。
「おや、お嬢様?」
背後から声をかけられる。
驚いてびくっと肩が跳ねる。
振り返ると、枝切鋏を持った由利が立っていた。
夜の月明かりが霧に反射して淡く彼を照らす。
「驚いたわ……こんな時間までお仕事を?」
「はあ、今日は芝を整えようと思いまして。お嬢様は?」
「ちょっと友人に逢いに行くの。吉野には秘密にしていてね」
「でも、いいんですかい。殺人犯が潜んでいるって」
「それは、少し心配だけれど……それは不確実なことだから、それよりも優先してお友達に逢いたくなってしまったの」
「そうですか……お気をつけて」
「ありがとう。なるべく静かに行ってくるわ」
由利に手を振って、有李華は湖畔に向かった。
夜に、ひとりきりで歩く道は昼とは全く様相が違った。まるで本の中の世界みたいだった。ロンドンの夜なのではないか? シャーロック・ホームズの物語のような。
あと霧といえば、匣の中の失楽。この別荘地にはあんな不快感はないのだけれど。むしろ、涼しい、清涼な霧だった。息苦しくなることもない。
紫陽花の小道に入って、湖畔へ至ると蒼夜の姿が無かった。
「あら……」
蒼夜は帰ってしまったのだろうか?
四阿まで歩くと、背後から声がした。
「こんな時間に出歩くなんて、悪い子だね」
振り返る。
乾いたばかりの髪がふわりと揺れる。
そこには、望んだ彼の姿があった。
「蒼夜さん、どこに隠れていたの?」
「君からは見えないところ。それよりもどうしたの、こんな時間にこんなところで」
「お風呂に入っていたら逢いたくなってしまったから。別に夜に来ても構わないと仰ったでしょう?」
「君の筈だったよ、殺人犯が徘徊していると教えに来てくれたのは」
「それでも逢いたかったの、貴方がこの時間に何をしているのか知りたかったの」
「君のその奔放さが心配になるよ」
「ねえ、何をしていらしたの?」
「月を見ていたんだ」
「安直に綺麗ですねなんて言いたくなんてないけれど、湖面に映る月は綺麗ね、儚くて。湖の中から見上げる湖面の月は、きっとそのときだけ本物になるのだわ」
「詩的だね。――でも、危ないな。帰りは一人なんだろう?」
「ええ。でも、来る途中も何もありませんでしたし……」
「それは帰りもなにもない保証にはならないね」
「そうですけれど」
有李華は少しだけ面白くなかった。逢いたかったのが自分だけだったみたいで滑稽だったからだ。
「仕方ないな……送っていくよ」
「え?」
「ただし、手をつなぐことになるけど、それは我慢してくれよ」
「手を繋ぐの、わたしたち?」
「そう」
そう言って蒼夜は有李華に手をそっと差し出した。
「さあ、どうぞ。お嬢さん」
有李華はなんだか全てが恥ずかしくて顔を伏せて、しずかに指先を彼のつめたい手のひらにのせた。異性と手を繋ぐことなど蜜ノ園有李華の人生において初めてだったのだ。
蒼夜はゆっくりと有李華をダンスフロアにエスコートするかのように四阿から出た。有李華の歩くペースに合わせてゆったりと歩いてくれる。
「蒼夜さんって、湖の畔に住んでいるのだと思っていましたわ。あと、湖から離れられないのかなって、推理していたのだけど」
「離れられないわけではないよ。でも湖の辺りに住んでいるのは当たってる」
「ねえ、今度わたしの家でパーティを開こうと思うのだけれど。来られる?」
「君が呼んでくれるなら」
「ええ、勿論」
二人を周囲から切り離すように霧が包んでいた。二人で歩いている空間だけ時間の流れが違う気がした。
有李華は蒼夜にどうしようもなく惹かれていた。
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